蔵王堂城ざおうどうじょう

~巨大な土塁と堀が良く残る~

Shironav Master

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蔵王堂城(ざおうどうじょう)は、南北朝時代、当社に北朝方の中条氏が本陣を構えたことが始まりと伝えます。
後に上杉謙信へと続く古志長尾家の長尾為重(謙信の叔父)が蔵王堂脇に本格的に築城し、会津移封までは上杉家及びその家臣が治める。
上杉家が会津へ移封された後は春日山城に入府した堀秀治の弟、堀親良が入り、蔵王堂藩の初代藩主となる。なお、蔵王堂藩は養子、堀鶴千代が坂戸藩の堀直寄の後見の元に継ぐのだが、9歳で亡くなった為に断絶。坂戸藩に編入される。
堀直寄は飯山藩へ転封され、松平忠輝臣下の山田隼人が入城。この時は藩としての復活はなく、福嶋藩(高田藩)の属領扱いだった。
忠輝が大阪夏の陣の不手際により改易されると堀直寄が蔵王堂城主として戻り、蔵王堂藩が復活する。
堀直寄は以前の統治時代に開始し転封により中断していた長岡城建築を進め、長岡城完成と共に移動した為に蔵王堂城は廃城となり、蔵王堂藩は長岡藩へと移行する。またこの蔵王堂は天領(幕府の直轄地)となり、この地に蔵王代官所を設けた。
長岡移転は蔵王堂城が信濃川のすぐ脇にあった為、水害により城の一部が侵食される程の被害を度々受け、城の維持が難しかったためである。
蔵王堂城|金峯神社~より引用

城跡の蔵王公園には上杉氏以降に中越地方を治め、長岡城を築城しまちづくりにも尽力するなど功績の多かった堀直寄を顕彰して彼の銅像が建てられています。

【目次】
基本情報
縄張図・鳥観図
ポイント
アクセス
参考文献・サイト

基本情報

城名(別名)蔵王堂城(蔵王城)
築城主中条氏?
築城年南北朝時代
カテゴリー南北朝時代 室町時代 江戸時代 安土桃山時代 平城 
関連項目中越地方 長尾為重 金峯神社 堀直寄 水堀 土塁 
遺構土塁  堀直寄公像   
住所(所在地)新潟県長岡市西蔵王3丁目2
指定文化財市指定史跡
構造物土塁、水堀、曲輪

ポイント

主な遺構 :
土塁
堀直寄公像
土塁
長岡城が築城されると蔵王堂城は廃城となりましたが、本丸周辺の土塁や堀の一部が良好な状態で残されています。
こちらの土塁の上には登ることができます。
本丸の周囲を囲うように堀と土塁がセットで作られていることがよくわかります。
堀直寄公像
堀直寄は名人久太郎と呼ばれ信長や秀吉に信任された堀秀政を家老として補佐した堀直政(奥田直政)の次男(または三男)に生まれた人物で、秀吉に小姓として仕えていましたが、その器量を見込まれ越後魚沼郡坂戸城2万石を与えられました。
主君堀秀治の次男、鶴千代が蔵王堂城主となると幼い城主を補佐しますが、鶴千代が早世し蔵王堂藩は廃藩になってしまい、蔵王堂の地は坂戸藩に吸収され(5万石)直寄の統治するところになります。
当時の蔵王堂城は信濃川に隣接していたため、水害に悩まされていたため直寄は長岡の地を新たな統治の拠点と定め築城を始めます。しかし堀家のお家騒動である越後福嶋騒動に巻き込まれ、直寄も信濃飯山藩(4万石)に減封となり、長岡築城も中断します。
信濃飯山藩主になってからの直寄は、駿府の徳川家康に仕え、駿府城火災の際にいち早く駆け付けたり、大坂の陣で戦功を挙げるなどして家康から大いに信頼されることになります。
元和2年(1616)に越後高田藩の松平忠輝が改易されると、直寄は長岡領主として復帰し越後長岡藩(8万石)が立藩します。直寄の元で長岡城の築城と城下町の開発が進められ中越地方の発展の礎となります。

アクセス

自家用車
関越自動車道 長岡ICより車で15分
北陸自動車道 長岡北IC(スマートIC)より車で8分
駐車場は無し

公共交通機関
JR長岡駅(大手通側)よりバスターミナル13番宝町行、もしくはエコトピア寿行で10分、「蔵王」下車徒歩3分
JR北長岡駅下車徒歩15分

参考文献・サイト

サイト
蔵王堂城|金峯神社
長岡市 蔵王堂城
堀直寄-Wikipedia

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