雁田城(かりたじょう)
~大城小城二段構えの山城~
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this castle
小布施町を含む高井野には、縄文時代から人びとが集落を営んでいた痕跡が残されています。ことに千曲川に注ぐ松川の扇状地には、古墳時代に朝鮮半島系の渡来人が高度な文化をともなう集落を形成ていたと見られます。大陸系の馬の飼育技能を備えていたようです。
時代を下ると、冷涼な気候の高井野には大和王権に直属する牧場地帯(勅旨牧/官牧)が設けられ、「高井牧」と呼ばれていました。渡来人たちはこの牧場の経営に携わりながら、公領としての牧場の近隣に集落と農耕地を開いていたものと見られます。律令制が緩んでいくと、こうした農村集落は東条荘(庄)などの荘園となっていきました。
荘園はやがて武士が統治権を担う所領となり、鎌倉時代には苅田氏、室町時代には荻野氏が統治したようです。戦国時代に入ると、中野を拠点とする高梨氏の領地となり、一帯の東に迫る山岳に苅田城(雁田城)や二十端つつはた城を築いて一帯を支配したと見られます。しかし、苅田城の来歴は不明な部分が多く、苅田氏や荻野氏が築いたとの伝承も残っています。今でも、大規模な石垣が残っていて、その堅固な構えから、高井野=小布施の統治には不可欠の重要な拠点だったようです。
高梨氏が衰退すると、1561年(永禄4年)北信濃に攻め込んだ武田信玄が小布施町を含む高井郡を領することになりました。1582年に武田家が滅ぶと織田信長の家臣の森氏が統治に当たり、さらに後に上杉景勝の支援を受けた高梨氏が復権しました。豊臣政権下で、1598年(慶長3年)に上杉景勝が会津に移封になると、高梨氏も上杉家とともに小布施の地を離れました。
雁田山は、首座山頂から北東に向かって3つの尾根峰が連続する山系です。これらの尾根からはそれぞれ西ないし北西の方向に尾根が伸びています。雁田山頂の南側にも1筋の尾根が東西に延びていて、松川は蛇行しながらその尾根と並行するように流れています。室町後期から戦国時代にかけては、このいずれの尾根にも城砦群が築かれていたと見られます。
尾根や城砦跡の配置や地形については、この下に掲載したグーグルマップを(地形モードに変えて)参照してください。
ところが、城砦跡(遺構)が見出されているのは、岩松院の背後の尾根筋状の雁田城跡とその北側の二十端つつはた城跡と滝之入城跡だけのようです。しかしながら、雁田の所領の集落を統治するためには、領主居館(根小屋)と山城城砦は、地形としては浄光寺(薬師堂)が位置する谷間と北側の尾根の方が適しているように見えます。
つまり、雁田山の全体にわたって時代ごとに領主居館の位置や重点となる城砦は変化してきたのではないかと推測できます。雁田における領主の統治と城砦の歴史のほんのごく一部分しか、私たちには痕跡を見出していないということです。居館や城砦の歴史については、ただ伝承からごく断片が推察できるだけなのです。
雁田城と岩松陰-信州まちあるきより引用
基本情報
城名(別名) | 雁田城(苅田城) |
---|---|
築城主 | 苅田式部太夫繁雅と伝わる |
築城年 | 元暦元年(1184)と伝わる |
カテゴリー | 南北朝時代 鎌倉時代 室町時代 安土桃山時代 山城 |
関連項目 | 曲輪 土塁 堀切 石垣 |
遺構 | 小城の石垣 小城 大城 堀切 福島正則公霊廟 |
住所(所在地) | 長野県上高井郡小布施町雁田 |
構造物 | 曲輪、石垣、堀切、段郭、土塁 |
ポイント
- 主な遺構 :
- 小城の石垣
- 小城
- 大城
- 堀切
- 福島正則公霊廟
- 小城の石垣
- 山麓までせり出した尾根の上に築かれた小城の周囲を守る石垣で、かなりの高さがあり、場所によっては三段になっている部分も見られ、かなり見事な石垣となっています。
ただし、戦国期に構築された石垣であるかは疑問の余地があるようで、以下の参考記事にあるように後世に積みなおしされた可能性が指摘されています。
参考記事
雁田城 (下高井郡小布施町雁田) - らんまる攻城戦記
信濃 苅田城(小城)-城郭放浪記
- 小城
- 物見の城とも言われる山麓に突き出した曲輪で、背後には石塁を伴う土塁と堀切で固めています。
- 大城
- 標高533mの山頂部分に削平された曲輪が5か所あり、それぞれ堀切で区切られています。
主郭にあたる部分には石垣や土塁を見ることができます。
- 堀切
- 大城では5つの曲輪をそれぞれ区切るように堀切が配されており、特に主郭部の前後を固める堀切が大きいです。
- 福島正則公霊廟
- 福島正則は加藤清正らと共に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の子飼いの将として活躍し、天下分け目の関ヶ原合戦では徳川家康に味方して安芸・備後二か国で49万石余りを領する大大名となりました。
しかし元和5(1619)年に広島城の無断改修を指摘され信州川中島と越後魚沼郡4万5千石に大幅減封となってしまいます。
高井野村(現高山村)に移った正則は松川の治水事業に取り組むなど、失意の中でも新たな環境で領国統治に励みますが寛永元年(1624)に没します。
正則は仏教を深く信仰し、岩松院を菩提寺と定めたためその霊廟が残ります。
アクセス
自家用車
小布施(スマート)ICから 約10分
須坂長野東ICから 約25分
岩松院駐車場を拝借
参考文献・サイト