富士見城(ふじみじょう)
~石垣を多用した絶景の山城~
Parameters of
this castle
富士見城は、小諸市の中央部 よりやや北西 に位置する飯綱山 (標 高835.5m)の 山頂周辺に築
かれた中世から近世にかけての城砦 ととらえられている。
小諸市誌によると、富士見城が築城 された時期は定かでないが、佐久地方の大半の城塞の築城
が応仁・文明の乱以降であることか ら、この城の起源 も15世紀後半頃まで遡 るもの とされる。築
城者は、当時佐久地方を支配 していた大井氏の一人で、西方からの脅威 (村上氏)に備え、小諸
城の大遠見城 として築かれたらしい。同様の意図で大井氏の協力者により築かれたと考えられて
いる城塞には、市内丙字両神 に所在する手代塚城がある。
富士見城が再び地方史のなかに登場するのは、起源 とされる時期か ら約100年 を経た頃になる。
長野県町村誌、諸部落誌によると「天正10年 (西暦1582年 )本郡擾乱の際、徳川氏の将、柴田七
九郎康忠暫時居城せ しと、里老の口碑 にして確乎たらず」 とされている。
柴田七九郎は、徳川家康の家臣で、天正11年 、依田信審が徳川氏の命によつて岩尾城 (佐 久市
大字鳴瀬字城跡 。宮の前)に籠った大井行吉 を攻めたときの軍監 として、依田氏の軍を督 してい
る。 また、柴田は、天正13年 、徳川氏 と上田の真田氏 との間に不和が生 じた際、徳川氏 との先鋒
として上田城下に迫 り、真田氏の反攻 にあい多数の犠牲 を出し敗退 した第一次徳川・真田合戦、
及びその後に報復のため、上田方に与する丸子城を攻めた折の武将 としても松平康国、大久保忠
世等 と共に名を連ねている。
天正年間は、佐久地方に勢力を張つた徳川氏と真田氏 との間に緊張が続いた時期 とされる。そ
の間、主城小諸城の西方監視の役割を担う衛星城砦 として、富士見城が重要な位置 を占めたであ
ろうことは想像するに難しくない。
~小諸市教育委員会編 富士見城跡 小諸市 1997年~より引用
天気が良く空気が澄んでいれば富士山まで見渡すことのできる絶景と、主要な曲輪だけでなく帯曲輪、段郭など隅々まで配置された石垣が特徴です。
とくに石垣をほぼ全ての曲輪に施しているのは信濃の山城でも珍しいと言えます、ただしその全てが戦国期に積まれたものかは定説が無く、後世に積まれた石垣も存在している可能性が高いようです。
基本情報
城名(別名) | 富士見城(大室城) |
---|---|
築城主 | 大井氏 |
築城年 | 15世紀後半 |
カテゴリー | 室町時代 安土桃山時代 山城 |
関連項目 | 武田晴信 堀切 石垣 眺望抜群 |
遺構 | 石垣 堀切 二の曲輪 |
住所(所在地) | 長野県小諸市諸 東房151−1 |
構造物 | 曲輪、石垣、堀切、段郭 |
問い合わせ先 | 一般社団法人 こもろ観光局 |
電話番号 | 0267-22-1234 |
縄張図・鳥観図
現地案内板より
山の尾根に沿って主要な曲輪と無数の帯曲輪、段郭が配置されています。
ポイント
- 主な遺構 :
- 石垣
- 堀切
- 二の曲輪
- 石垣
- 富士見城の特徴でもあるほぼ全ての曲輪に積まれた石垣ですが、一見すると野面積みのように見えます。
小諸市の発行した富士見城跡(1997年)によると、調査によって石垣のいくつかは耕作にかかわる畦石垣や土砂崩れ防止のための石積であることが確認され、やはり近世以降に積まれた可能性が高いようです。
- 堀切
- 本丸と四の曲輪の間には大きな堀切があり、木橋がかけられています。
以前に訪れた時(3枚目)よりも木橋が新しくなっていました。
- 二の曲輪
- 二の曲輪には展望台が建てられており、眺望抜群の景色を見ることができます。
アクセス
飯綱山公園(小諸高原美術館)に駐車場があり、そこからすぐに富士見城にアクセスできます。
上信越自動車小諸ICから飯綱山公園(小諸高原美術館)まで約7分
参考文献・サイト
- 書籍
- 小諸市教育委員会編 富士見城跡 小諸市 1997年
- サイト
- 山城めぐり│富士見城跡 | 信州・小諸|こもろ観光局
信濃 富士見城-城郭放浪記