苗木城なえぎじょう

~巨岩を利用した石垣を擁する赤壁城~

Shironav Master

Parameters of
this castle

苗木城は岐阜県中津川市苗木、市内を東西に貫流する木曽川の右岸にそびえる高森山(432メートル)に築かれています。
岩山の上にあるため、その巨岩を取り込んだ石垣を見ることができます。また敷地の確保が困難なため、建物の構築方法に懸造りが使われており、自然の地形を有効に活かして築かれた山城です。
江戸時代には苗木藩が成立し、遠山氏の居城になっていましたが、明治維新後に廃藩置県で苗木藩が消滅すると苗木城も廃城となりました。
戦後には国の史跡に指定され、近年では日本城郭協会が定める続日本100名城にも選定されました。

【目次】
基本情報
縄張図・鳥観図
ポイント
歴史的背景
アクセス
参考文献・サイト

基本情報

城名(別名)苗木城(赤壁城、霞ヶ城)
築城主遠山氏
築城年大永6年(1526)
カテゴリー室町時代 江戸時代 安土桃山時代 山城 
関連項目遠山友政 森長可 懸造り 天空の城 石垣 眺望抜群 
遺構石垣 天守台 大矢倉 馬洗岩 千石井戸 
住所(所在地)岐阜県中津川市苗木
指定文化財国の指定史跡
構造物石垣、門跡、櫓台、天守台、曲輪、井戸
問い合わせ先苗木遠山史料館
電話番号0573-66-8181

縄張図・鳥観図

現地案内板より
門や曲輪、櫓台などには石垣が配置されており、攻め手の侵入を阻んだと思われます。

ポイント

主な遺構 :
石垣
天守台
大矢倉
馬洗岩
千石井戸
石垣
坂下門跡のように巨岩をそのまま壁として用いた石垣(?)もあればしっかりとした石積もあり、巡っていて非常に面白いです。
また石積も年代によって異なる積み方(野面積み、打込接ぎ、切込接ぎ、谷積み)がなされておりその境目を探すのも楽しいです。
天守台
天守のあった部分も巨岩が使われており、巨岩に掘られた柱穴を利用して柱梁建物(展望台)が設置されています。
展望台は360度の大パノラマが広がり、中津川のシンボルである恵那山、眼下の木曽川など絶景を堪能することができます。
大矢倉
天然の巨岩も用いて築かれた大矢倉は3階建てで、苗木城で最も大きい櫓でした。
1階は3方を石垣で囲い倉庫として使われており、2,3階には矢狭間などの防御機構が備わっていたようです。
城の北側の防御を固める役割があったようです。
馬洗岩
馬洗岩とは天守台の南下にある巨岩のことを指しています。
かつて苗木城が攻め込まれて水の手を切られた際に、この岩の上に馬を乗せて米で馬を洗い城内にまだ水が豊富にあるように見せかけることで敵を欺いたという逸話が名前の由来になっているようです。
似たような逸話は日本各地の山城に残されているので実際に起こった出来事なのかは不明です(白米城の伝承)。
千石井戸
苗木城内で一番高所に位置する井戸で、どんな日照りでも水が枯れることなく千人の用を達したとの言い伝えからこの名がつけられたようです。
本丸のすぐ下の曲輪に枯れることのない水の手があるというのは守りにつく城兵からしてもとても心強かったのではないかと感じました。

歴史的背景

遠山氏と苗木城
鎌倉時代の初期に地頭として恵那郡を領有した遠山氏が木曽川北部へ進出したことで苗木の地は遠山氏によって統治されることとなり、その過程で苗木城も築城されました。
戦国時代になるとすぐ隣の木曽谷を支配していた木曽氏が武田家に降ったため武田家と領地を接することになり、ほぼ同時期に尾張から美濃へ勢力を拡大してきた織田家とも領地を接することになり東西を2大勢力に挟まれる形となります。
当初は織田武田間の関係が良好だったため両方の勢力に従属することで家の存続を図った遠山氏でしたが、織田武田の同盟が決裂すると最前線ということもあり度々戦いに巻き込まれます。
天正2年(1574)にはついに武田勝頼が東美濃へ侵攻を開始し、苗木城は落城しますが、翌年に織田信忠が東美濃を攻撃した際に苗木城も奪還されたと思われます。
天正10年(1582)の本能寺の変によって織田信長、信忠父子が横死すると旧織田領では大混乱となり、遠山友忠はこれに乗じて岩村城の奪還を企図しますが、武勇に長けた森長可の暗殺に失敗し禍根を残します。
森長可は明智光秀を討った羽柴秀吉に味方し美濃金山城を与えられ、東美濃の制圧を命じられます。この時遠山友忠は秀吉から長可の指揮下に入るよう命令を受け、長可からも投降を呼びかけられますがこれらを拒絶。徳川家康の支援を受けて長可との決戦に臨みますが敗北し家康を頼って浜松へ落ち延びました。
しばし雌伏の時を強いられた遠山氏でしたが、慶長5年(1600)に家康が会津征伐に乗り出すと西方で石田三成が反家康を掲げて挙兵、この時苗木城主の河尻秀長は西軍に属しました。そのため家康は遠山友政に命じて苗木の地へ戻り兵を集めて苗木城を攻略することを命じます。友政が苗木の有力者や領民を味方につけて城に迫ると城代の関盛祥は防戦は不可能と判断し城を退去、18年ぶりに友政は苗木城へ入城を果たしました。

関ケ原の合戦後に家康から働きを認められた友政は改易された河尻氏の所領をそのまま与えられ苗木城と恵那郡・加茂郡、1万500石の知行を回復し後に苗木藩が成立、幕末まで遠山氏が藩主として存続しました。

赤壁城伝説
苗木城は赤壁城という別名があり、城の壁は白漆喰ではなく赤土がむき出しになっていたと伝えられています。その理由に関して、木曽川に住む竜が白い色を嫌い、何度漆喰を塗り直しても嵐を起こしてはぎ取ってしまったという伝説が残されています。
しかし実際にはそもそも1万石規模の領地しか持っていない苗木藩は経済的に弱体で漆喰を塗る経費が捻出できなかったというのが本当の理由であったとされています。
※1万石クラスの大名家は基本的に無城(陣屋)の格式が与えられていたためその大半が城を持っていませんでしたが、苗木藩は城持ち大名の格式を幕末まで保持していました。

アクセス

自家用車
中津川ICから国道19号→国道257号下呂方面へ約10分。城山大橋を渡り城山病院手前を遠山史料館方面へ右折
周囲には無料駐車場がいくつもありますので駐車には困らないと思います。

公共交通機関
JR中津川駅前より北恵那交通バス苗木・付知方面 約10分「苗木」下車。
徒歩約30分

参考文献・サイト

書籍
苗木城パンフレット
サイト
苗木城跡|岐阜の旅ガイド
苗木城跡/中津川市
苗木城 | 北恵那交通株式会社
苗木城-Wikipedia

この記事をシェアする