鮫ヶ尾城(さめがおじょう)
~御館の乱、決着の地~
Parameters of
this castle
鮫ヶ尾城は標高185mの城山に築かれ、遺構が造作された部分で約10万㎡、天険の要害を構成する自然地形まで含めると約22万㎡にも及ぶ越後国内屈指の大規模な山城です。尾根の主稜線に大規模な堀切や曲輪が並べられ、中心部を取り囲むように多くの切岸が存在します。
築城年代は定かではありませんが、その立地から、北信濃に侵攻してきた武田家に備えた前線拠点の一つとして上杉氏によって築城された山城であると言われています。
鮫ヶ尾城の名が記録に出てくるのは上杉謙信死後に勃発した家督争いである御館の乱にて上杉景虎の書状内においてのみであり、それによれば城将は堀江宗親という人物でした。御館の乱にて上杉景勝と争った上杉三郎景虎(北条氏康の7男とされる人物)は居城であった御舘が落城すると関東への脱出を図り南下、堀江宗親は景虎を鮫ヶ尾城に迎え入れます。
しかし安田顕元の誘いにより宗親は景虎方へ寝返りを決め、二の丸に火を放って鮫ヶ尾城から退去します。
逃げ場を失い総攻撃を受けた景虎は妻子ともども自害して果て、鮫ヶ尾城も焼き払われそのまま廃城となりました。
基本情報
城名(別名) | 鮫ヶ尾城 |
---|---|
築城主 | 上杉氏 |
築城年 | 16世紀 |
カテゴリー | 安土桃山時代 山城 |
関連項目 | 大堀切 上杉景虎 続日本100名城 眺望抜群 |
遺構 | 堀切 本丸 曲輪 井戸跡 虎口 |
住所(所在地) | 新潟県妙高市宮内 字城山 |
指定文化財 | 国の指定史跡 |
構造物 | 曲輪、堀切、竪堀、土塁、井戸跡 |
問い合わせ先 | 妙高市 生涯学習課 文化振興係 |
電話番号 | 0255-74-0035 |
縄張図・鳥観図
現地案内板より
山を丸ごと城塞化したような規模で、数多の曲輪と深い堀切が特徴です。
御館の乱後廃城となったとされており、上杉謙信時代の姿を忠実に留めている山城といえます。
ポイント
- 主な遺構 :
- 堀切
- 本丸
- 曲輪
- 井戸跡
- 虎口
- 堀切
- 草木があまりに元気すぎたので画像に少し手を加えました。
本丸と米蔵曲輪の間の堀切(画像1)がわかりやすいです。
- 本丸
- 鮫ヶ尾城の最高所(標高185m)にある曲輪が本丸とされています。
本丸からは高田平野を一望できます。
ここまで登るのは少し大変ですが、この絶景はぜひ見てほしい景色です。
- 曲輪
- 本丸のすぐ下に二の丸、さらに一段下がったところに三の丸があります。
どちらの曲輪からも御舘の乱での戦火を被ったと思われる遺物が出土しており、とくに三の丸から出土した炭化したおにぎりが有名です。
- 井戸跡
- この近辺で上杉景虎は自害したと言われています。
雨が降った直後だったからかもしれませんが、かなりの量の水が溜まっていました
- 虎口
- 大手口とされる登城道から三の丸への侵入を阻むように配置されており、土塁によって入り口が狭まっています。
土塁と土塁の間に櫓門があったと考えられています。
また、三の丸方面に行くには右へ方向転換する必要があり、桝形虎口のような機能を持っていたと思われます。
歴史的背景
北条家から来た上杉景虎
そもそも上杉景虎は越後の主、上杉謙信と血縁関係になく、その生まれは相模から関東に覇を唱えた北条氏康の実子とされ、幼少期に箱根早雲寺に預けられ僧として過ごしていました。
その後大叔父にあたる北条幻庵の養子となりました。定説では北条氏秀と名乗っていたと言われていましたが、近年の研究では氏秀は川越城主北条綱成の次男であるという考えが主流となり、別人であったと考えられています。そのためこの頃は北条三郎という呼び方が定着しつつあります。
北条家は甲相駿三国同盟で武田家、今川家と婚姻同盟を結んでおり、背後を固め関東や越後方面への領土拡大が基本方針となっていました。しかし桶狭間の戦いによって今川家当主義元が討死し、今川家が動揺すると武田信玄は今川領への侵略を開始し、ここに三国同盟は破綻、北条氏康は今川家へ援軍を送り武田家との同盟を破棄しました。
そのため長年敵対していた越後の上杉氏と同盟を結ぶ機運が高まります(越相同盟)が、上杉方から人質を出すよう要求されます。
当初は氏康の嫡男氏政の次男国増丸を人質とすることが決まっていましたが、氏政がこれを拒否したため北条三郎が送り込まれることになりました。
永禄13年(1570)に北条三郎は上野国沼田にて上杉謙信と面会し、謙信の姪(上杉景勝の姉)を娶り正式に養子として迎えられ、春日山城三の丸に屋敷を与えられます。またこの時に上杉謙信の初名である景虎を与えられ上杉景虎として生きていくことになります。
御館の乱とその最期
元亀2年(1571)に実父北条氏康が死ぬと跡を継いだ氏政は武田家と甲相同盟を再締結し、これに伴い越相同盟は手切となりましたが、景虎は越後にとどまりました。
天正6年(1578)、越後の龍と呼ばれた稀代の英雄、上杉謙信が春日山城にて没します。謙信には実子がおらず、また上杉家の家督継承を生前に定めていなかったため上杉家中は謙信の甥である上杉景勝の派閥と景虎の派閥に分かれ内紛が勃発します(御館の乱)。
景勝方は先手を打って春日山城の本丸や金蔵、兵器蔵を接収し春日山城内で優位に立ちます。一方の景虎方は三の丸を退去して越後の政庁であった御館に移り、そこで態勢の立て直しを図ります。景虎方には実家の北条家やその同盟国である武田家、伊達家、蘆名家など周辺の戦国大名が味方していたためこれらの勢力の後ろ盾を得ていた景虎方が当初は有利であったといわれています。
しかし北条家の依頼で景虎方として越後に兵を進めていた武田勝頼に景勝方が接触し和睦交渉を実施、上杉領の割譲を条件に甲越同盟が締結され、景勝方が勢いを取り戻します。武田勝頼はあくまで中立の立場であることを誇示して春日山城の近くまで進出し、景勝と景虎の和平交渉を仲介しようと働きかけますが、徳川家康の駿河侵攻によって一部の兵を残して越後から引き上げ、和平交渉は破談となりました。
この頃になると北条家が本腰を入れて景虎支援を行うべく兵を派遣し三国峠を越えて景勝方の坂戸城に迫ります。坂戸城はこの攻撃をよく耐え、冬の到来が近づくと北条勢も撤退を余儀なくされました。
このようにして外部勢力の介入を排除した景勝方は越後国内の景虎方を次々と撃破し、家中の支持を集めることに成功し形成は逆転しました。そしてついに天正7年(1579)2月に景勝は諸将に御館への総攻撃を命じ、翌月には御館は落城、景虎は関東へ向かうため御館を脱出し南下、途中の鮫ヶ尾城で景虎方であった堀江宗親に迎えられますが、宗親はすでに景勝方に通じており、裏切られた景虎は鮫ヶ尾城で自害し果てることになりました。
アクセス
公共交通機関
えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン「北新井駅」より徒歩約30分で登山口(北登山道)
自家用車
新井スマートICから約10分
無料駐車場あり(鮫ヶ尾城址 駐車場)
参考文献・サイト
- 書籍
- パンフレット:斐太歴史の里を歩く
パンフレット:鮫ヶ尾城跡 縄張図 - サイト
- 斐太歴史の里:鮫ヶ尾城跡-妙高市
越後鮫ヶ尾城-城郭放浪記
越後鮫ヶ尾城-埋もれた古城
鮫ヶ尾城-お城散歩