石垣山城(いしがきやまじょう)
~総石垣の太閤一夜城~
Parameters of
this castle
石垣山は、本来「笠懸山」と呼ばれていましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏を水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになりました。
この城が、世に石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城中の将兵が驚き士気を失ったためと言われています。しかし、実際にはのべ4万人が動員され、天正18年4月から6月まで約80日間が費やされました。
この城は、関東で最初に造られた総石垣の城で、石積みは近江の穴太衆による野面積みといい、長期戦に備えた本格的な総構えであったといわれ、度重なる大地震にも耐え、今日まで当時の面影が大変よく残されています。
~小田原市|石垣山一夜城~より引用
本格的な近世城郭として誕生した石垣山城でしたが、小田原北条氏が降伏するとその役目を終えたと判断されたのか、誕生から1年とたたずに廃城となっています。
現在この地は国立公園区域及び国指定史跡に指定され、続日本100名城にも選定されています。
基本情報
城名(別名) | 石垣山城(一夜城) |
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築城主 | 豊臣秀吉 |
築城年 | 1590年 |
カテゴリー | 安土桃山時代 山城 |
関連項目 | 北条氏直 北条氏政 豊臣秀吉 続日本100名城 |
遺構 | 石垣 井戸曲輪 天守台 |
住所(所在地) | 神奈川県小田原市早川1383-12 |
指定文化財 | 国の史跡 |
構造物 | 石垣、曲輪 |
問い合わせ先 | 小田原城総合管理事務所 |
電話番号 | 0465-23-1373 |
縄張図・鳥観図
公式パンフレットより
いかに多くの石垣が多用されているかがわかります。
ポイント
- 主な遺構 :
- 石垣
- 井戸曲輪
- 天守台
- 石垣
- 総石垣とは各曲輪の周囲や天守閣などの基礎が全て石垣でできている構造を指し、近世城郭の特徴ともされています。
現地で石垣山城を見た時はその石の量に圧倒されました。
- 井戸曲輪
- 井戸曲輪は谷地形を利用して作られた曲輪で、石垣や石塁で周囲を囲うことで谷を遮蔽し湧水を貯水する構造になっています。
- 天守台
- 天守閣があったとされる場所で、一段高くなっています。
秀吉はここにどのような天守を築いたのでしょうか?
歴史的背景
小田原征伐への道
本能寺の変で主君織田信長を討った明智光秀を山崎の戦いで破った豊臣秀吉は、織田家の後継者という地位を確立し、天正13年(1585)に関白に任官、その年に四国の長宗我部元親を攻め降伏させ、翌々年の15年(1587)には九州の島津攻めを行い西国をほぼ平定します。この時点で秀吉に恭順していなかったのは奥州で頭角を現していた伊達政宗と関東一円をほぼ手中に収めた北条氏政でした。
そこで同年暮れ、「以後、大名同士の領土の取り合いなどがあれば、関白として征伐する」という私戦禁令『関東・奥両国惣無事令』を発令し、全国の大名を秀吉の統制下に置くことを宣言します。
その翌年16年(1588)4月に後陽成天皇を京都の邸宅兼城郭の聚楽第に招き、全国の諸大名に参列を命じ忠誠を誓わせましたが、このとき北条氏政・氏直父子は列席しませんでした。
秀吉は北条氏政らを上洛させるため真田家の沼田城を北条家に割譲させるなどの懐柔策を取り、氏政も上洛の意向を示すなど、平和的に北条家を恭順させる工作が水面下で進んでいました。しかし天正17年(1589)10月に上野国の沼田城代を務めていた猪俣邦憲が、突如として隣接する真田家の名胡桃城を攻撃し奪取。これを惣無事令違反として秀吉は11月24日に宣戦布告。
豊臣勢は徳川家康を筆頭に前田利家、上杉景勝、小早川隆景、蒲生氏郷、真田昌幸など乱世を生き抜いてきた歴戦の猛者たちを従えその総勢は20万人にも及んだとされています。北条家が構築した支城ネットワークを陥落させながら本拠地である小田原城に迫り、大軍で包囲しました。
包囲される小田原城↓
対する後北条勢は約5万、小田原城やその支城の修築をはじめ、城と城下町を包括した総構(惣構)を完成させ迎撃態勢を整えるものの、豊臣方の内通工作や短期間で総石垣の石垣山城を築城し圧倒的な土木建築力を見せつけるなどの揺さぶりにより城方は士気が大幅に低下してしまいます。また頼みにしていた奥州の伊達政宗までもが石垣山城の秀吉の元へ参陣し臣従を誓い、いよいよ後北条氏は孤立無援となり、天正18年(1590)4月3日から始まった戦いは同年7月5日に当主北条氏直が開城降伏を受け入れ終結します。開戦の責任があるとみなされた前当主氏政やその弟の氏照、家老たちには切腹が命じられますが、氏直は徳川家康の娘婿だったため一命を許され、高野山に蟄居となり、ここに戦国大名北条家は滅亡しました。
↑石垣山城から一望できる小田原城
アクセス
公共交通機関
・JR早川駅から石垣山農道を経て徒歩約50分
・箱根登山鉄道入生田駅から徒歩約60分
自家用車
・西湘バイパスを湘南方面から
西湘バイパス「小田原IC」で降り、国道1号「山王橋」交差点左折、国道1号を道なり箱根方面へ約2.9km先「板橋」交差点左折、約350m先「ターンパイク入口」交差点左折、約260m先の新幹線高架手前を右折、約70m先を右折し道なり約1.8km
・小田原厚木道路から
小田原厚木道路「小田原西IC」で降り国道135号方面へ約860m先の新幹線高架手前を右折、約70m先を右折し、道なり約1.8km
無料駐車場あり
参考文献・サイト
- 書籍
- 石垣山一夜城パンフレット
- サイト
- 小田原市|石垣山一夜城
石垣山一夜城歴史公園|スポット-小田原市観光協会
小田原征伐-Wikipedia