福井城ふくいじょう

~県政の中枢を守る石垣と堀~

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福井城は、徳川家康の次男・初代福井藩主・結城秀康が慶長11年(1606)に築城し、約270年間17代にわたり越前松平家の繁栄の舞台となった名城。築城当時は高さ37m・四層五階の雄大な天守閣が建っていましたが、大火で焼失。現在では石垣と堀の一部だけが残るのみですが、広大な堀の姿からも、当時の規模をうかがい知ることができます。また、福井の名の起こりとなったという「福の井」と呼ばれる井戸跡が天守台下にあります。
福井城址|おすすめの観光スポット~より引用
福井城の跡に建てられた福井県庁など県政の中枢を担う建物は遺構である石垣や堀に守られるような構図となっており、この構図から最強の県庁との呼び声もあります。
また続日本100名城にも選定されています。

【目次】
基本情報
縄張図・鳥観図
ポイント
アクセス
参考文献・サイト

基本情報

城名(別名)福井城(北ノ庄城、北庄城)
築城主結城秀康
築城年慶長11年(1606)
カテゴリー江戸時代 平城 
関連項目百間堀 結城秀康 どうする家康 徳川家康 続日本100名城 石垣 
遺構福の井 水堀 石垣 天守台 山里口御門 
住所(所在地)福井県福井市大手3丁目17−1
構造物石垣、堀、御廊下橋(復元)、山里口御門(復元)、福の井(復元)
問い合わせ先福井県財産活用課
電話番号0776-20-0252

縄張図・鳥観図

現地案内板より
周囲を水堀で囲われた本丸の中心には御殿が、北側には戦時に備えた四層五階の壮大な天守が鎮座していました。

ポイント

主な遺構 :
福の井
水堀
石垣
天守台
山里口御門
福の井
福井は、元々「北ノ庄」と呼ばれていましたが、「北」の字が「敗北」につながるので不吉であるとして、3代藩主・松平忠昌(1598~1645) によって「福居」と改められ、その後「福井」とさらに改められたと言われています。また控天守台の横手の井戸「福ノ井」が福井の由来になったともいわれています。その「福の井」は、結城秀康が福井城を築く以前からこの地にあったといい、名井として知られていたそうです。
昭和23年(1948)の福井地震では井戸の形が大きくゆがんでしまいました。そのため復元整備が実施され、平成29年(2017)に再整備が完了しました。
現在の福の井は口径約1.6m、深さ約5.1m、水深約2.1mとなっています。
水堀
四重・五重に巡らされた福井城の水堀は、最も大きなものは「百間堀」と呼ばれ、幅は広いところで55間(約100m)あったようです。福井駅西口につながるの大通りの道は大変広く、百間堀の名残を感じさせます。
現在も残る内堀は幅約30mあるようです。
石垣
福井城の石垣には足羽山産の笏谷石が使われ、天守台、大手門、櫓台などの重要部分は切込接、その他の部分は打込接による布積で見事に積み上げられています。
水堀からせり上がる高石垣は約7mもの高さがあります。
天守台
本丸北西隅の天守台上には高さ約30mで四重五層の壮大な天守が威容を誇っていましたが、寛文9年(1669)の大火で焼失して以降再建されませんでした。
現在は天守を支えた石垣を見ることができます。
福井地震によって一部の石垣は歪んでおり、震災の被害の大きさを今に伝えています。
山里口御門
山里口御門は、「廊下橋御門(ろうかばしごもん)」や「天守台下門(てんしゅだいしたもん)」とも呼ばれていた福井城本丸の西側を守る枡形門(ますがたもん)です。
 江戸初期から本丸の西につながる西二の丸には松林があり、山里丸と呼ばれていました。山里口御門は、この山里丸から本丸への入口の門として、築城当時に造られました。寛文9年(1669)の大火で天守などとともに焼失しますが、その後再建されました。
 藩主の住居である御座所が西三の丸(現在の福井市中央公園付近)にあった松平春嶽公などの時代には、藩主は御廊下橋を渡り、山里口御門を通って本丸へ向かったと考えられています。
 今回の事業では、2階部分に櫓(長屋状の建物)が載る櫓門(やぐらもん)、2本の柱とその上部を連結する冠木(かぶき)で屋根を支える構造の棟門(むなもん)、そしてこれら2つの門とともに枡形を形成する石垣上の土塀を復元しました。
~福井城山里口御門復元整備事業/福井市公式ホームページより引用
御廊下橋→山里口御門と歩くことで登城の雰囲気を味わうことができます。

アクセス

公共交通機関
JR福井駅から徒歩5分
自家用車
北陸自動車道福井ICから車で15分

参考文献・サイト

サイト
福井城山里口御門復元整備事業/福井市公式ホームページ
「福井城址お堀の灯り」-福井城の歴史-
福井城址|おすすめの観光スポット

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