獅子吼城ししくじょう

~あまたの石塁が守る武田の山城~

Shironav Master

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this castle

獅子吼城は塩川と湯戸ノ沢が合流する北東側にある標高788.4mの城山に築かれている。 この城は大半が石塁によって築かれている点が特徴である。

獅子吼城は尾根続きの北東側に向かって防御遺構が施されている。現在の入口である東の尾根には堀切が設けられ、いずれも北側の斜面に竪堀として伸びている。 虎口は横堀にした石塁の先端を櫓台状にやや幅広くし、それをぐるりと回り込んで入るようになっており、東の尾根からは直接入れないようになっている。

主郭は山頂にあり東西に長く東端が土塁となってやや高い。一段下を帯曲輪が巡っており、そこから北東側に腰曲輪が数段続く。この曲輪の側面は石塁が築かれており、それ以外も天然の岩肌で急峻な地形となっている。

虎口付近から続く横堀から一条の竪土塁が伸び、西側には二段の帯曲輪が付いている。さらに下方には、また別の竪石塁が伸び、一度西へ屈折してさらに下に続いている。この付近に炭焼き窯跡らしきものがあり、そこから北の根古屋へ降りるルートがあるが、このルート沿いにも一部側面に石塁のある竪土塁が続いている。
甲斐 獅子吼城-城郭放浪記より引用

【目次】
基本情報
縄張図・鳥観図
ポイント
歴史的背景
アクセス
参考文献・サイト

基本情報

城名(別名)獅子吼城(江草城、江草小屋)
築城主江草氏?
築城年不明
カテゴリー室町時代 安土桃山時代 山城 
関連項目天正壬午の乱 石塁 服部半蔵 竪堀 堀切 徳川家康 北条氏直 
遺構石塁 主郭    
住所(所在地)山梨県北杜市須玉町江草5527
指定文化財市の指定史跡
構造物石塁、竪堀、堀切、土塁、切岸、のろし台(復元)
問い合わせ先一般社団法人 北杜市観光協会
電話番号0551-30-7866

縄張図・鳥観図

現地案内板より
主郭の周囲は切岸と石塁で全周を囲っています。
尾根筋にあたる東側には竪堀や堀切が設けられ、防御力が補強されています。

ポイント

主な遺構 :
石塁
主郭
石塁
獅子吼城のある山は元々岩山であったらしく、その大量にある石を利用して城塁を形成しています。
石垣のように積まれたものもあれば、巨岩をそのまま防壁としているものもあり見応えがあります。
主郭
石塁に囲われた獅子吼城の中心部です。
一段高くなっており、周囲は切岸になっています。
また、武田信玄の時代には信濃方面からの急を知らせる烽火ネットワークの中継地点であったことを考慮してかのろし台が復元されています。

歴史的背景

古くは「江草 (えぐさ) 城」 「江草小屋」ともいわれ、地元では、城山(じょうやま)と呼ばれています。
昔、江草城が落城のおり、城内に住んでいた怪物が野山を揺るがす声で吼えながら眼下の深い淵 (獅子淵) をめがけて飛び込み、岩となってしまったとの伝説から 「獅子が吼える城」 と書いて、獅子吼城と呼ばれるようになりました。また、これより、この村では正月の獅子の舞が禁じられ、これを犯すと暴風雨が起こるとされ、さらには子ども等の玩具でさえも獅子は許されないと伝えられています。
この城にまつわる最期の記録は、武田家が滅亡後の天正壬午(てんしょうじんご)の乱 (1582年)で、 甲斐の国を駿河の徳川家康と相模の北条氏直が争った時でした。氏直は若神子に本陣を構え、大豆生田砦と獅子吼城に軍を送り込み占拠、これに対して、新府城に布陣した家康配下の服部半蔵ひきいる伊賀組と武田家の旧家臣団が夜襲をかけて落城させました。 この戦いが徳川の甲斐支配を決定的とした合戦でした。これが甲斐の国で記録に残る戦国時代最後の戦いです。
「根古屋」 は、 山上に城のある城下町という意味です。根古屋神社前の道は、長野県佐久や群馬県の地方を結ぶ、小尾街道または、穂坂路とよばれた古道です。交通の要地でしたから関所もおかれていました。

現地案内板より引用

アクセス

公共交通機関
JR韮崎駅より増富温泉郷行きバス「平」下車後、
根古屋神社の大ケヤキを経由して遊歩道入り口まで徒歩15分、もしくは獅子吼城址のある山の東側まで徒歩およそ40分。

自家用車
根古屋神社の大ケヤキ付近に数台分の駐車場があり、今回はそこを利用しました。
根古屋神社の大ケヤキからGoogleマップ上の獅子吼城登城口まで約300m、徒歩4分です。

獅子吼城登城口↓

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参考文献・サイト

サイト
甲州戦国時代最後の合戦の地 獅子吼城址-ほくとナビ
甲斐 獅子吼城-城郭放浪記
獅子吼城 (山梨県北杜市須玉町江草)-らんまる攻城戦記

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