根知城ねちじょう

~望郷の猛将、村上義清最期の地~

Shironav Master

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村上義清が堅固な守りを固めた名城  根知城は、越後と信濃の国境に位置する堅固な山城で、根小屋地区の城山(525m)中腹の根小屋城を中心として、上城山城、栗山城からなる一大城郭です。
三城の中で中心的な役割を果たしていた根小屋城は、城山の標高320mに位置する戦国時代の典型的な尾根城です。当地方でも最大の規模を誇る根知城は、信濃の国に対する越後側の最前線基地として重要な役割を担いました。
城から眺めると、西に姫川、東から北に根知川が流れており、天然の堀をなしています。根知城はこの恵まれた自然条件を最大限に活用して築かれており、戦国時代の山城および館城の特徴をよく留めています。
本丸跡と殿屋敷と称する郭跡を中心に、郭跡17、削平地201、掘切16、堅堀15というように大規模な城郭跡を残しており、新潟県の史跡に指定されています。
根知城 - 文化財・伝統芸能 - 糸魚川観光ガイド より引用

【目次】
基本情報
縄張図・鳥観図
ポイント
歴史的背景
アクセス
参考文献・サイト

基本情報

城名(別名)根知城(根小屋城)
築城主不明
築城年不明
カテゴリー安土桃山時代 山城 
関連項目山浦国清 切岸 土塁 堀切 村上義清 
遺構石垣 切岸 曲輪 堀切 村上義清の墓 
住所(所在地)新潟県糸魚川市根小屋
指定文化財新潟県指定史跡
構造物土塁、石垣、曲輪、切岸、堀切、竪堀
問い合わせ先一般社団法人糸魚川市観光協会
電話番号025-555-7344

ポイント

主な遺構 :
石垣
切岸
曲輪
堀切
村上義清の墓
石垣
殿屋敷と呼ばれる広大な曲輪の北側に石垣の跡が残ります。
殿屋敷の曲輪は石垣の他に、背後に大堀切もあり、籠城戦の際にはここを主戦場にと想定していたような気もします。
切岸
殿屋敷曲輪の付近に特に大きく斜度のある切岸があり、普請の際の土木量の膨大さを感じることができます。
曲輪
根知城には曲輪跡17、削平地201という膨大な数の削平地がありますが、主なものとして、石垣のある殿屋敷、山小屋のあるヒノミ(物見として機能していたか?)、本丸があります。
本丸からは日本海に面した糸魚川の町並みを一望することができます。
堀切
山小屋のあるヒノミの先にある尾根筋に掘られた堀切が特に見やすいと感じました。
殿屋敷の背後には大堀切があります。
村上義清の墓
根知城の麓、安福寺には村上義清のものと伝わる墓があります。
領地を追われた後は上杉氏の客将としてたびたび信濃川中島に出陣して武田軍を苦しめた猛将、村上義清、彼は上杉謙信からも高く評価され、義清の嫡男国清は謙信の養子となり山浦氏を名乗るなどして上杉家の中で確固たる地位を得ています。
村上義清が没したのは元亀4(1573)年の1月で、好敵手であった武田信玄もその五か月後に没します。
そして約10年後の天正10(1582)年に宿敵武田家が滅びると山浦国清が海津城代に任じられ、悲願の旧領復帰が一時的に叶いました。

歴史的背景

根知城の築城年代は明らかではありませんが、文献などからは上杉謙信以前の時代まで遡ることができます。城主は禰智(ねち)氏・村上氏・堀氏などが歴任したとされ、上杉景勝の時期には同盟関係にあった武田勝頼の弟、仁科盛信が根知城勤番を勤めました。景勝の会津移封後、根知城に入った堀清重は、慶長4(1599)年の上杉遺民一揆の際に根知城を廃し、糸魚川市一の宮に清崎城を築いたといわれています。
現在見られる要害堅固な根知城の遺構は、村上義清が城主の時代に整えられたといわれています。義清は信濃の葛尾城主でしたが、甲斐の武田信玄に破れ、天文22(1553)年上杉謙信に援助を求めて来ました。永禄8(1565)年、謙信は義清を根知城主に任命し、根知城の守りを固めました。
なお、義清は、ついに信濃の地に戻ることはなく、根知城で亡くなりました。伝説では、根小屋の安福寺に義清の墓があるといわれています。
根知城 – 文化財・伝統芸能 – 糸魚川観光ガイド より引用

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アクセス

自家用車
北陸自動車道糸魚川IC下車、国道148号を左折、小谷方面へ約10分
信号「根知谷入口」を左折し約3分
根小屋バス停手前、登山道入口あり
登山道(急な登りもあります。歩きやすい服装でお越しください)
登り:約40分(休憩含む)
下り:約30分
根小屋公会堂の近くに駐車スペースがあります↓

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公共交通機関
JR根知駅下車、徒歩5分登山道入口

参考文献・サイト

サイト
根知城 - 文化財・伝統芸能 - 糸魚川観光ガイド
越後 根知城(根小屋城) - 城郭放浪記
根知城 - お城散歩 - FC2

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