大倉城おおくらじょう

~鬼武蔵による悲劇の落城~

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大倉城は長沼島津氏の詰めの城である。飯綱町三水方面から延びた台地の一部が突き出た尾根に築かれた山城である。平地との標高差は100m程で、崖下を沿うように鳥居川が流れている要害の地に立地している。城山には、本郭・井戸郭・二の郭・三の郭が並び、尾根筋には大堀切と、幾重もの土塁跡がみえる。堀切は山裾に向かって竪堀となって延び、畝状の竪堀群跡もみられる。南方約5Kmの所に長沼本城がある。

 弘治3年(1557)2月、葛山城が武田軍に攻略され、島津忠直(月下斎)は長沼城から大倉城に退き、上杉の援軍を待った。そこで謙信は忠直に戸屋城(長野市七二会)の城番を命じ、援兵を送って、水内西部の武田に属した大日方氏に備えさせた。そうして3月下旬、謙信は春日山を出陣し、4月下旬に善光寺横山城に本陣を張った。島津宗家は、天文22年(1553)8月、村上義清が上杉を頼って越後に逃れた後も在地に留まり、武田に抵抗した。

 永禄6年(1563)信玄は、赤沼※城主・島津尾張守に逃亡した地下人を長沼に呼び戻すことを命じている。永禄4年(1561)の川中島合戦を境に、島津一族は敵味方に分かれて矛を交えるようになった。これも戦国乱世を生き延びる地侍たちの姿であった。
※長沼城と大倉城の中間、現在の赤沼地籍のあたり

 天正10年(1582)4月、武田氏を滅ぼして北信濃に入った織田信長の家臣森長可[もりながよし]に抗して、芋川親正[いもかわちかまさ]を総大将とする数千の農民や浪人が一揆を起こし、大倉城にたて籠った。激戦の末に敗走する一揆勢1200余人が討死した。長可はさらに籠城していた女子千余人を虐殺した。大倉城はこのような悲話を伝えている(『信長公記』)。
大倉城跡 /【川中島の戦い】史跡ガイド - 長野市より引用

主郭部には悲劇の落城を後世に伝えるべく建てられた供養塔や石碑を見ることができます。

【目次】
基本情報
縄張図・鳥観図
ポイント
アクセス
参考文献・サイト

基本情報

城名(別名)大倉城(大蔵城)
築城主小笠原長清と伝わる
築城年鎌倉時代と伝わる
カテゴリー室町時代 安土桃山時代 山城 
関連項目井戸 曲輪 森長可 大堀切 
遺構一の堀 二の堀 主郭 井戸跡 土塁 
住所(所在地)長野県長野市豊野町大倉1028
構造物堀切、土塁、曲輪。井戸跡
問い合わせ先(財)ながの観光コンベンションビューロー
電話番号026-223-6050

縄張図・鳥観図

現地案内板より
東西に延びる尾根筋に連続した曲輪があり、それを堀切で断ち切っています。

ポイント

主な遺構 :
一の堀
二の堀
主郭
井戸跡
土塁
一の堀
登山道から尾根筋にとりつくと一の堀の堀底に出ます。
この一の堀はかなりの大きさがあり県内でも有数の規模で、三の曲輪まで相当登ることになります。
規模が大きすぎて写真ではいまいちわかりにくいですが一見の価値があります!
二の堀
二の曲輪を越えた先に二の堀があります。
一の堀ほどではありませんが、しっかりとした深さ、横幅のある堀切となっています。
主郭
主郭には説明版や石碑などがあり、須坂市方面への眺望が良いです。
また主郭の裏手には上巾21mの堀切があります。
井戸跡
主郭の北側には井戸曲輪とよばれる削平地があり、井戸があったと思われる石で囲われた遺構があります。
土塁
二の曲輪と二の堀の間になかなかの高さがある土塁があります。

アクセス

自家用車
上信越自動車道信州中野ICから車で15分
数台の駐車場あり
山頂まで徒歩20分

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参考文献・サイト

書籍
中嶋豊,いざ!登る信濃の山城: 戦国の舞台イラスト案内図,信濃毎日新聞社, 2020
サイト
らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
大倉城跡 /【川中島の戦い】史跡ガイド - 長野市
信濃 大倉城-城郭放浪記
大倉城跡 - 信州の文化財を探すSEARCH

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