直峰城のうみねじょう

~三国街道を眼下に望む重要拠点~

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直峰城跡は、越後府中から関東へ通じる三国街道の拠点として、重要な位置を占めた山城です。築城年は定かではありませんが、南北朝時代の南朝方の風間信濃守信昭の居城とされ、歴代城主には吉田周防守秀忠、樋口兼豊(直江兼続の実父)などがいます。標高344メートルの急峻な独立峰に郭、空堀、土塁を巧みに配置した堅固な山城で、新潟県文化財に指定されています。上杉家に伝わる、慶長2年(1597)制作とされ、約400年前の頸城郡を描く絵図「越後頸城郡絵図」(米沢市上杉博物館蔵)では「直嶺之城」として山城の姿が描かれています。

 直峰城の麓を通る三国街道は、謙信公の関東出陣の道として知られています。松之山街道、三国往還、上田道などの呼称があり、街道の一部、往時の道形と敷石が残る安塚から原山間の約2キロメートルは、上越市文化財に指定されているとともに、文化庁により「歴史の道百選」に選定されています。往時の息吹を感じることができます

上杉謙信公の時代には、春日山城から関東へ抜ける要衡であり、謙信公は関東遠征の際、1泊目の宿泊地にしたとも伝えられています。
 謙信公が49歳でこの世を去ると、養子の景勝と景虎が跡目を争った「御館の乱」が起こり、春日山城・直峰城を押さえた景勝が勝利しました。景勝は、大河ドラマ「天地人」の主人公直江兼続(なおえかねつぐ)の実父の樋口惣右衛門兼豊(ひぐちそうえもんかねとよ)を天正12年(1584年)御館の乱の功績により、直峰城主としました。

 慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の命で、上杉家は会津移封、その移封に従い樋口惣右衛門兼豊も同行しました。息子の兼続は米沢も治めることになり、米沢には最近まで「直峰町」と呼ばれる町名がありました。

 直峰城は、徳川時代になり、廃城となりましたが、今も大規模な空堀・曲輪の跡、2kmに及ぶ敷石の道(旧三国街道)などが残り、樹齢800年といわれている大ケヤキが歴史の流れを伝えています。
直峰城 大河ドラマ「天地人」ゆかりの城 - 上越市ホームページ~より引用

【目次】
基本情報
縄張図・鳥観図
ポイント
アクセス
参考文献・サイト

基本情報

城名(別名)直峰城
築城主風間信濃守信昭と伝わる
築城年不明
カテゴリー南北朝時代 室町時代 安土桃山時代 山城 
関連項目風間信昭 樋口兼豊 曲輪 空堀 
遺構屋敷跡 空堀 切岸 大ケヤキ  
住所(所在地)新潟県上越市安塚区松崎
構造物空堀、切岸、曲輪
問い合わせ先安塚区総合事務所
電話番号025-592-2003

縄張図・鳥観図

現地案内板より
数多くの曲輪が存在していることがわかります。

ポイント

主な遺構 :
屋敷跡
空堀
切岸
大ケヤキ
屋敷跡
直峰城の特徴として、曲輪が城主や有力家臣の屋敷の用地としてあてがわれていたことが挙げられます。これは春日山城でも見られます。
現地には伝承などからそれぞれの削平地に案内板が建てられておりわかりやすくなっています。
空堀
主郭の近くには巨大な空堀が配されており、守りを固めています。
切岸
山の斜面を切り崩して削平地を造る際にできるのが切岸で、大きな削平地の背後にはかなりの大きさの切岸があります。
大ケヤキ
樹齢800年と伝わる大ケヤキで、主郭から1段下がった曲輪に鎮座しています。

アクセス

公共交通機関
北越急行・ほくほく線「虫川大杉駅」からタクシーで20分
自家用車
北陸自動車道「上越IC」から直峰城跡駐車場まで45分
北陸自動車道「柿崎IC」から直峰城跡駐車場まで45分
関越自動車道「六日町IC」から直峰城跡駐車場まで85分

降雪期(12月~翌年4月下旬)は、進入できません。
駐車場から本丸跡(山頂)まで徒歩で約15分です。
無料駐車場あり(20台)

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登山口にはトイレもあります

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参考文献・サイト

サイト
直峰城 大河ドラマ「天地人」ゆかりの城 - 上越市ホームページ
直峰城跡 | 【公式】上越観光Navi

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