若神子城わかみこじょう

~甲斐源氏発祥の地と伝わる~

Shironav Master

Parameters of
this castle

若神子城は「古城」あるいは「大城」とよばれる遺構 を中心に、東に北城、湯沢の西に南城の三ヶ所からなる 山城の総称である。連郭式といわれる中世の古い形態 残す山城で、新羅三郎義光によって築かれたと云伝え れている。「甲斐国志」に「若神子、多麻庄二属セ 天正壬午八月ヨリ北条氏直本陣ヲ居キシ処・・・」とある 即ち、天正十年(一五八二年)武田氏滅亡后、信州から 侵攻した北条氏直の相模勢と家康が率いる徳川勢が対峙 した時、古城に篭った北条軍が築構した薬研堀が主郭部 から二ヶ所、発掘調査によって、検出された。更に主 部の東端から厚く焼土が堆積した跡が発見され、南端部 からは見張台の跡と思われる柱穴と掘り方も検出された。 往時「塩の道」ならぬ「のろしの道」の情報、通信拠点 としての若神子城に、つるべ式狼火台を復元し、戦国の 情報伝達を今に伝え、生きた歴史教育の一助になること を願います。
現地案内板より引用

つるべ式狼火台は老朽化のため撤去されたようです。

【目次】
基本情報
縄張図・鳥観図
ポイント
歴史的背景
アクセス
参考文献・サイト

基本情報

城名(別名)若神子城(古城、大城)
築城主新羅三郎義光あるいは武田義清と伝わる
築城年不明
カテゴリー鎌倉時代 室町時代 安土桃山時代 
関連項目薬研堀 天正壬午の乱 武田信玄 北条氏直 
遺構薬研堀 主郭    
住所(所在地)山梨県北杜市須玉町若神子
指定文化財市の指定史跡
構造物空堀、土塁
問い合わせ先一般社団法人 北杜市観光協会
電話番号0551-30-7866

ポイント

主な遺構 :
薬研堀
主郭
薬研堀
天正十年壬午(一五八二年)三月、新羅三郎義光以来の名門武田氏は信玄没後十年をへずして織田信長により悲劇的な滅亡を遂げた。その信長も六月、本能寺の変で明智光秀に殺された。この為、甲斐の国は、小田原の北条氏直と徳川家康との係争の地と なった。この戦いを天正壬午の乱という。
家康は韮崎の新府城に陣し、氏直は若神子に本陣を構え、その時の八月から九月初旬にかけて、この城も修築がおこなわれた。薬研堀は、幅一メートル深さ 一ニメートル、長さ十メートル、発見され、規模と配置から構築途中の段階で放置された、当時のものと推定されています。薬研堀の名は、断面がV 字形をした漢方薬の薬種を粉砕する薬研という道具に似ているので、その名がある。戦いは、津金衆・ 小尾衆など武田の遺臣たちを巧みに保護利用した、 家康が大豆生田砦、獅子吼城の戦いで勝利を得た。
現地案内板より引用

うっすらと残っている様子を見ると、後北条氏が山中城などで用いた障子堀のようにも見えます。
主郭
現在は公園となっており、あまり遺構と思しきものは残っていませんでした。

歴史的背景

新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)、源義清、あるいは清光の城であったという説がありますが、未詳です。
諏訪や佐久へ抜ける街道が集まる八ヶ岳台地は交通の要衝であり、特に若神子は棒道と佐久往還が分岐する要地です。戦国時代、信濃侵攻を考えていた武田信玄の父・信虎は、逸見氏のあとにこの地を押さえていた今井信元を下し、巨摩郡北部を支配下に置きました。若神子城は武田氏の重要な軍事拠点となり、八ヶ岳台地にめぐらされた烽火台網の重要な中継地にもなりました。武田家滅亡後に徳川氏と北条氏が甲斐の覇権を争った際には(天正壬午の乱)、北条氏は若神子城を、徳川氏は新府城(韮崎市)を本陣としました。
現在は公園として整備されています。城上からは茅ヶ岳や富士山を一望できます。
若神子城跡(わかみこじょうあと)|棒道 > 甲斐源氏の痕跡コースより引用

アクセス

自家用車
中央自動車道・須玉ICから車で10分
無料駐車場あり
普通車 約10台

公共交通機関
JR日野春駅からタクシーで約15分

参考文献・サイト

サイト
若神子城跡(わかみこじょうあと)|棒道 > 甲斐源氏の痕跡コース
ふるさと公園 (若神子城址:わかみこじょうし) - 北杜市観光協会
甲斐 若神子古城-城郭放浪記

この記事をシェアする