金ヶ崎城かねがさきじょう

~三方を海に囲われた要衝の山城~

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敦賀湾を一望する小高い山にある金ヶ崎城跡。様々な時代の逸話がありますが、 平安時代末期、治承・寿永の乱(源平合戦)の時代に、平通盛が北陸で勢力を持つ木曾義仲に対抗するため城を築いたのが最初と言われています。南北朝時代の延元元年(1336年)、恒良、尊良両親王を守護した新田義貞が足利軍と戦った古戦場として知られ、戦国時代には、織田信長が越前朝倉攻めの際に浅井長政に裏切られ、決死の撤退戦を強いられた「金ヶ崎の退き口」において、窮地を救った明智光秀・豊臣秀吉の殿(しんがり)の地としても知られています。

現在、金ヶ崎城址の麓には金崎宮(かねがさきぐう)が建っています。
金ヶ崎城跡 /ふくいどっとこむ~より引用

『太平記』には「かの城の有様、三方は海によって岸高く、厳なめらかなり」とあり、南北朝時代から天然の要害であったことがわかります。また日本海側からの物流の要である敦賀の港を抑える要衝の地でもあったことが、古来より争奪戦が繰り広げられた要因でもあります。

【目次】
基本情報
縄張図・鳥観図
ポイント
歴史的背景
アクセス
参考文献・サイト

基本情報

城名(別名)金ヶ崎城(敦賀城)
築城主平通盛と伝わる
築城年平安時代末期頃
カテゴリー安土桃山時代 海城 山城 
関連項目高師泰 尊良親王 新田義顕 新田義貞 浅井長政 羽柴秀吉 金ヶ崎の退き口 どうする家康 織田信長 麒麟がくる 
遺構月見御殿 木戸跡    
住所(所在地)福井県敦賀市金ケ崎町1-4
指定文化財国の史跡
構造物曲輪、木戸跡
問い合わせ先敦賀観光案内所
電話番号0770-21-8686

縄張図・鳥観図

金崎宮案内記より
陸続きとなっている手筒山方面には木戸が配置されており本丸の月見御殿を守るようになっています。

ポイント

主な遺構 :
月見御殿
木戸跡
月見御殿
金ヶ崎城の最高地(海抜86m)に位置し、南北朝時代には本丸が置かれていたようです。
また戦国時代には武将が月見をしたと伝わり、月見御殿と呼ばれています。
木戸跡
南北朝時代には木戸と呼ばれる関門があり、同時代にあった足利軍と新田軍の戦いにおいて木戸付近が激戦の地となったようです。

歴史的背景

金ヶ崎の退き口
元亀元年(1570)四月、足利義昭を擁立して畿内の覇権を握った織田信長は、上洛要請に応じない越前の大名朝倉義景征伐の軍を起こしました。敦賀に進軍した織田軍は金ヶ崎城の支城である手筒山城を落とし、金ヶ崎城の城将である朝倉景恒に降伏を迫り開城させました。
若狭国を制圧した織田軍は木の芽峠を越えて越前に攻め入ろうとした時、同盟者であった近江浅井長政裏切りの報がもたらされます。織田・徳川軍は浅井・朝倉軍に挟撃される危機に陥り、信長は僅かな供回りを引き連れ一目散に退却を開始、殿(しんがり)を木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に任せます。藤吉郎は摂津守護の池田勝正や明智光秀らと連携し徳川家康の助けも得て金ヶ崎城を拠点に浅井・朝倉軍の熾烈な攻勢をしのぎます。
織田信長は近江豪族の朽木元網らの協力を得て朽木谷を通過し京へ逃げ延び、その後本拠地の岐阜へ戻って体制を整えます。
2か月後には軍勢を発し近江姉川で浅井・朝倉軍と決戦に及び勝利、その後浅井家の小谷城、朝倉家の一乗谷城を攻略して両家を滅ぼしました。

アクセス

公共交通機関
JR敦賀駅からコミュニティバス「松原線」で「金崎宮口」下車
ぐるっと敦賀周遊バスで「金崎宮」下車

自家用車
北陸自動車道敦賀ICから車で約10分
無料駐車場あり

参考文献・サイト

サイト
金ヶ崎城跡 /ふくいどっとこむ
金ヶ崎城 余湖くんのホームページ

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