鳥取城(山上ノ丸)とっとりじょう(さんじょうのまる)

~忠義の将、吉川広家の壮絶な籠城戦~

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鳥取城の興りは16世紀の中頃、山陰地方に勢力を伸ばしていた守護大名山名氏の一族である因幡山名氏によって築かれました。当初は因幡山名氏の守護所、出城という扱いでしたが、天正元年(1573)に山名豊国が本拠地を鳥取城に移したことで因幡国の一大拠点となりました。
やがて中国地方を席巻した毛利氏が進出してくるとその傘下となります。一方で畿内を制圧して周辺勢力への侵略を開始した織田信長は配下の羽柴秀吉を中国方面の総大将に任命し、毛利攻めが始まります。鳥取城は毛利対織田の最前線に位置したため、城を守っていた森下道与・中村春続らは毛利軍の山陰方面を統括していた吉川元春に支援を求め、元春は吉川一門で文武に優れた吉川経家を城将として派遣し防衛戦の指揮を取らせます。
織田信長から『堅固な名城』と称された鳥取城に対して秀吉は無理な攻城戦を挑まず、圧倒的な兵力で包囲網を敷き、一切の補給路を断つ兵糧攻めを仕掛け、秀吉自身も鳥取城を見下ろす陣城、太閤ヶ平から全軍の指揮を取りました。
兵糧攻めに対してよく持ちこたえた鳥取城ですが、2か月目にして城内の家畜や植物も食べ尽くし、3ヶ月目には守城兵の餓死者が続出し始めるような悲惨な状況に陥ります。それでも4か月に及ぶ籠城戦を耐えますが、ついに力尽き、吉川経家は城兵や城内に避難した民衆の命と引き換えに自刃し城は開城しました。その最期には敵方の信長や秀吉も感じ入り、信長は送られてきた経家の首を丁重に葬ったと伝わります。
兵糧攻めの後に鳥取城主となったのは秀吉配下の宮部継潤という人物で、継潤によって鳥取城には石垣や天守が築かれ近世城郭へと一新されました。その後の関ヶ原合戦では宮部家が西軍に属したため鹿野城主、亀井茲矩や竹田城主、赤松広秀らに攻められ開城しました。
関ヶ原合戦の後に鳥取城には姫路城を築き、姫路宰相と称された池田輝政の弟、池田長吉が城主に任じられます。姫路城と鳥取城に配属された池田氏は徳川家康からの信任厚く、西国の豊臣系大名の抑えを期待されました。
元和元年(1615)にその豊臣家が大坂の陣で滅亡すると、池田輝政の孫にあたる光政が因幡伯耆32万石を与えられ鳥取城主に任じられます。これにより現在の鳥取県域とほぼ同じ大きさの鳥取藩が誕生します。
池田光政は鳥取藩32万石にふさわしい居城を築くため、政庁を山麓に移して整備しこれが鳥取城山下ノ丸となりました。その後鳥取藩は藩主の光政が岡山藩へ国替えとなり、同じく池田氏の光仲が藩主となるという一幕もありましたが、光仲を藩祖とする鳥取池田氏は12代存続し、明治維新を迎えます。

【目次】
基本情報
縄張図・鳥観図
ポイント
アクセス
参考文献・サイト

基本情報

城名(別名)鳥取城(山上ノ丸)(久松山城)
築城主山名氏
築城年16世紀中ごろ
カテゴリー江戸時代 安土桃山時代 山城 
関連項目日本十大籠城戦 吉川経家 羽柴秀吉 日本100名城 
遺構本丸 天守台 石垣 城門  
住所(所在地)鳥取県鳥取市東町
指定文化財国指定史跡
構造物天守台、櫓跡、石垣、城門跡、井戸跡
問い合わせ先鳥取市教育委員会事務局文化財課
電話番号0855-30-8422

縄張図・鳥観図

現地案内板より
築城当初は久松山の自然地形を利用した山城でしたが、江戸時代以降に久松山を大きく切り開き、その廻りを高い石垣で囲って城域を拡大したようです。本丸には、天守櫓・車井戸・多聞櫓・着見(月見)櫓などが設けられていましたが、天守櫓は元禄5年(1692)に落雷のため焼失してしまい、再建されませんでした。その他の建物は明治時代の初めまで残ってましたが、解体されてしまったようです。

ポイント

主な遺構 :
本丸
天守台
石垣
城門
本丸
本丸には月見櫓跡、天守台跡、池田長吉の時代に3年かけて掘ったとされる車井戸などがあります。
また本丸の周囲を囲う石垣は大規模で素晴らしいです。
天守台
本丸にある天守台跡には建物が建っていたことを想像される石積が残されています。
また天守台跡からは日本海までを一望できる絶景を見ることができます。
石垣
本丸、二の丸を中心に山上とは思えない規模の石垣を見ることができます。
城門
三の丸から少し東側に行ったところで城門跡を見ることができます。
斜面を遮る登石垣が付属しており倭城との関連性が指摘されています。

アクセス

吉川経家公像から鳥取城山下ノ丸を経由で約1時間

参考文献・サイト

書籍
国指定史跡 日本百名城 鳥取城跡
サイト
中世と近世の城郭が混在する「鳥取城」
とっとり城めぐり - 鳥取県観光連盟

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