谷戸城やとじょう

~甲斐源氏武田家の原点~

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大治5(1130)年、常陸国(茨城県)から甲斐国に配流となった源義清・清光親子の土着は、甲斐国に大きな歴史のうねりをもたらしました。 甲斐源氏の誕生です。清光 (1110~1168) は、 御牧 (馬を飼育するための官営の牧場) に近い逸見 (八ヶ岳南麓の台地一帯を指す古い地名)に目を付け、ここを本拠とし、 逸見清光と名乗りました。
逸見の地を本拠とした清光は多くの男子に恵まれ、その子らが甲斐国内で勢力を扶植したことから、次の代では甲斐国の広い範囲を甲斐源氏が支配することとなった。なかでも武田信義は平家討伐に功を上げ、 後に戦国大名となる武田家の基礎を築いた。
清光が本拠とした北杜市域には、若神子城跡(古城・南城・北城)や谷戸城跡のような山城のほか、鎧堂、清光寺、逸見神社、白旗神社といっ た神社仏閣まで、 初期甲斐源氏にまつわる伝承をもつ旧跡が多くあり、戦国大名武田氏に繋がる甲斐源氏 は、ここから甲斐国全域に広がりました。

段上または台上と呼ばれる八ヶ岳南麓の台地上は古来より逸見氏の勢力下にあり、 武田信虎が享禄5(1532)年に甲斐国を統一するまでは、守護武田氏だけでなく諏訪氏、佐久の大井氏などとの戦いが幾度となく展開されました。台地上に点在する山城や砦も、この頃に使われたと考えられます。 軍用道路といわれている棒道は、この台地上を通って信濃 (長野県) へ抜けており、天文17 (1548)年に武田信玄が.信濃へ出兵した際は、谷戸に陣所を構えたとの記録が残っています。

城は、流れ山とよばれる小山を利用して築かれており、北に巡らせた横堀と西側を流れる西衣川で区画している。 城内は山頂部の一の郭を中心に、ニの郭から五の郭までを同心円状に配し、西側の山裾には館が置かれていた と想定される六の郭が広がる。 各郭の出入口は喰い違い虎口が多用され、 空堀は等高線に沿うように掘る横堀が発達している。 発掘調査による出土品は14~15世紀のものが中心を占め、現代に伝わらなかった歴史をもつ城跡であることがわかってきている。
天正10(1582)年、武田家滅亡後の甲斐国の領有をめぐり徳川家康と北条氏直が争った天正壬午の 戦いでは、信濃側から甲斐に侵入した北条方により台地上はほぼ制圧されました。
北杜市域は主戦場と なり、この時いくつかの城が北条氏により修築されたと推測されています。
現地案内板より引用

谷戸城の現在の姿も天正壬午の乱の際に進出してきた後北条氏軍による改修を受けたとみられており、特に中核部は高い土塁と深く長い空堀を組み合わせた遺構を見ることができます。
1993年に国指定史跡となった後に、史跡整備が進められ、郭や土塁などが昔のように復元された結果のようです。

【目次】
基本情報
縄張図・鳥観図
ポイント
歴史的背景
アクセス
参考文献・サイト

基本情報

城名(別名)谷戸城(茶臼山城、逸見城)
築城主逸見清光と伝わる
築城年平安時代後期
カテゴリー鎌倉時代 室町時代 安土桃山時代 山城 
関連項目新羅三郎義光 甲斐源氏 逸見清光 天正壬午の乱 北条氏直 
遺構土塁 空堀 横堀 一の郭  
住所(所在地)山梨県北杜市大泉町谷戸2605
指定文化財国指定史跡
構造物土塁、空堀、横堀、虎口
問い合わせ先一般社団法人 北杜市観光協会
電話番号0551-30-7866

縄張図・鳥観図

現地案内板より
2本の川に挟まれた台地上に築かれており、攻めずらい地形であったと思われます。
一の郭付近が重点的に囲われており高い防御力があったことがうかがえます

ポイント

主な遺構 :
土塁
空堀
横堀
一の郭
土塁
特に一~三の郭付近にある土塁はかなりの高さがあり、城の中心部を攻め手が容易には見られないようになっています。
土塁を越えた先には空堀が待ち構えており、城兵は攻め手に気づかれることなく移動できたと思われます。
空堀
草木で少し見づらくなっていますが、城の中心部を土塁と共に囲う堀は深さもあり加工度の高さが伺えます。

一方で城の北側にある空堀(3枚目)は年月を経てかなり埋まってしまっていますが、塹壕のように延々と続いており、そのまま東側の竪堀まで接続しています。
横堀
城の北側の出入り口を固めていた大きな横堀で、現在は一部残っています。
一の郭
周囲は土塁で囲われており、2か所だけ土塁が切れていて出入りできるようになっています、往時は門があったのでしょうか?
草木に覆われて若干見づらくなっております、、

歴史的背景

逸見清光は常陸国武田荘を拠点とし、武田冠者を名乗った源義清の子で、新羅三郎義光の孫にあたる。大治5年(1130)濫行によって常陸国司に訴えられ(『長秋記』)、義清・清光は甲斐国市川荘(巨摩・8代・山梨三郡に散在)に流された(『尊碑分脈』)。こののち清光は八ヶ岳南麓の逸見荘を拠点として勢力を伸長し、逸見冠者を名乗るが、江戸時代の地誌『甲斐名勝志』は「矢谷村に城の腰と伝所あり。逸見黒源太清光住給いし館の跡なりと云」、同じく『甲斐国志』は「(矢谷城)古伝二逸見源太清光此ノ城ニテ建久6年6月ヨリ病ミ正治元年6月19日〓(*1)ス」と記している。
 一方『吾妻鏡』治承4年(1180)9年15日条は北条義時が甲斐源氏に対し源頼朝方に参加するよう、「逸見山」で要請したことを記している。すなわち「武田太郎信義・一条次郎忠頼巳下信濃国中ノ凶徒ヲ討得テ、去夜甲斐国ニ帰リテ逸見山ニ宿ス。而シテ今日北条殿其所ニ着シ、仰ノ趣ヲ客等ニ示サレ給フト云々」、またつづく24日条、10月13日条にも逸見山より駿河に出陣した旨の記述がある。この逸見山については『甲斐叢記』が谷戸の城山について「又逸見山とも云ふ」と記しているから、この谷戸城のある城山を指す可能性がある。今日逸見山という呼称はないが、城山の西方に逸見神社があり、『甲斐国志』は「社記曰、逸見神社ト云逸見氏世々崇奉ノ氏祠ナリ徃昔ハ古城山ノ南ニ在リ」(諏訪神社の項)と記している。
 こののち観応擾乱時(観応2年<1351>)に「甲斐国逸見城」の名が醍醐寺報恩院文書に登場するが、やはり逸見山を指したものか。またさらに下って武田信玄の時代には「谷戸の御陣所」の名が『高白斎記』に散見されるが、軍用道路であった棒道に近接した要衝であり、重視されたものであろう。
 さらに後北条氏と徳川氏が、武田氏滅亡後の甲斐国をめぐって対立した天正10年(1582)のいわゆる天正壬午の戦いには、谷戸城は後北条方の城となり、大幅な修築がなされたと『甲斐国志』は記している。
 遺構は山頂の周囲を0・5〜2メートルほどの土塁で囲み、東西30メートル、南北40メートルを主郭とする。また東側には高さ2メートルの土塁をめぐらす東西30メートル、南北60メートルのくるわを設ける。また北には二重の土塁を距って2段の東西40メートル、南北50メートルのくるわを、また西方にも小規模なくるわを設けている。
 なお昭和57年と平成元年に大泉村教育委員会によって試掘調査が行われ、土塁にそった横堀や、礎石の一部を確認した。また蓮弁文青磁碗の破片や15世紀頃の内耳土器、洪武通宝などが検出されている。
 城山の下、城下集落の南西にある城下遺跡では平安期の集落が検出されており、石帯のほか12世紀後半の常滑焼破片、12世紀後半から13世紀に比定される中国青磁、白磁の破片、白かわらけが出土している。古代牧の系譜を引くという逸見荘の中心的な集落であろう。
 谷戸城一帯には御所、町屋、対屋敷といった地名が残っている。また今日長坂町大八田にある清光寺は逸見清光の菩提寺と伝えるが、その前身の信立寺は谷戸城の北西にあったという。また谷戸城北西の西井出・石堂には白旗社(白旗明神)があり、『甲斐国志』は「口碑ニ逸見四郎有義此下ニ白旗ヲ埋ム、後人因テ神トシ祀ル」とあるが、白旗社の存在は源氏との関連を示すように思われる。その社地には基礎石を共有する2基の不整形な石層塔がある。また谷戸城山頂にある八幡宮についても『甲斐国志』は「茶臼山ノ城址ニ在り、源太清光ヲ配祀セリ」と記している。
谷戸城跡は初期武田氏にかかわる伝承をもつ城として、甲斐を中心とする地域における城館跡のあり方や武田氏を中心とする各勢力の発展過程を具体的に知ることができる遺跡といえよう。
谷戸城跡 – 文化遺産オンラインより引用

アクセス

自家用車
中央自動車道、長坂IC下車後、約10分で谷戸城址駐車場(無料、約35台駐車可能)

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谷戸城址駐車場以外にも隣接する北杜市考古資料館にも駐車可能

公共交通機関
電車
JR長坂駅下車、タクシーで約15分(約2,000円)
特急利用の場合、JR小淵沢駅下車、タクシーで約25分(約4,000〜5,000円)

バス
JR長坂駅から北杜市民バス2号車北線 約15分
JR小淵沢駅から北杜市民バス2号車北線 約12分 
いずれも「JA大泉支店前」下車(200円)、徒歩5分

参考文献・サイト

サイト
谷戸城跡 - 文化遺産オンライン
谷戸城址の桜 - ほくとナビ
甲斐 谷戸城-城郭放浪記

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