新府城(しんぷじょう)
~未完に終わった甲州流築城術の集大成~
Parameters of
this castle
新府城は武田勝頼が本拠を甲府市の躑躅ヶ崎館から韮崎市に移転を計画し、築城した城です。武田信玄から家督を継いだ勝頼は躑躅ヶ崎館のある府中では城下町の拡大に限界があること、また信濃や西上野、駿河へと拡大した領国統治に不備をきたすことなどを理由に、韮崎市を新府として政庁の移転を企図したと言われています。
新府城の普請は天正9年(1581)から開始されますが、その頃は織田・徳川連合軍による武田領侵攻が間近に迫っており、それに対抗するため七里岩の断崖絶壁を取り込む形で築城された平山城になります。突貫工事である程度形になってきたのか、天正9年末には勝頼自身が躑躅ヶ崎館から新府城へ移住しました。
しかし翌年の天正10年になると織田家と領土を接する木曾口を守っていた木曽義昌が織田家に寝返り、これに動揺した武田家中では日和見の国人衆から一門衆までもが織田・徳川に内通する事態となってしまいます。甲州征伐が本格的に始まると勝頼は新府城では支えきれないと判断、小山田信茂の岩殿城へ移ることを決め、新府城には火をかけました。
築城から入城まで一年足らずの未完の城と言われていますが、その史跡からは、武田家が培った築城技術が随所に施されており、武田家の甲州流築城技術の集大成の城郭であることが伺えます。
基本情報
城名(別名) | 新府城(韮崎城) |
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築城主 | 武田勝頼 |
築城年 | 天正9年(1581) |
カテゴリー | 安土桃山時代 平山城 |
関連項目 | 続日本100名城 甲州流築城術 真田昌幸 武田勝頼 |
遺構 | 出構 丸馬出と三日月堀 桝形虎口 堀 本丸 |
住所(所在地) | 山梨県韮崎市中田町中條上野字城山 |
指定文化財 | 国の史跡 |
構造物 | 曲輪 土塁 枡形虎口 馬出 三日月堀 出構 木橋橋台 井戸跡 |
問い合わせ先 | 韮崎市観光協会 |
電話番号 | 0551-22-1991 |
縄張図・鳥観図
現地案内板より
断崖絶壁の七里岩で側面を固めつつ、敵の攻撃が集中する正面には三日月堀と丸馬出が配置されており完成していれば非常に攻めづらい平山城になっていたと思われます。
ポイント
- 主な遺構 :
- 出構
- 丸馬出と三日月堀
- 桝形虎口
- 堀
- 本丸
- 出構
- 新府城でしか見られない防御施設として出構があります。
これは堀に突き出した高台という形になっており、湿地帯の堀を押し渡ろうとする敵勢を迎え撃つためのもの、もしくは堀の水位を調節するためのものと言われていますが、その機能は未だに特定されていません。
新府城が完成していればその機能も明確になっていたかもしれませんね。
- 丸馬出と三日月堀
- 甲州流築城術の特徴である丸馬出は激戦が予想される大手枡形虎口の前面に配置されています。
丸馬出に沿う形で掘られている三日月堀と丸馬出の上からの攻撃で敵を足止めしている間に側面から兵を繰り出し敵の横を突くことができ、後年の真田丸の前身のような形になっています。
- 桝形虎口
- 大手側と搦手側(乾門)にそれぞれ桝形虎口が配置されています。
桝形の周囲は土塁で囲われており、土塁の切れ目の部分に門があったと思われます。
- 堀
- 外堀は現代でも水が溜まっていました。
内堀は藪に覆われつつあり少し見づらいです。
- 本丸
- 近年再評価の向きがあるものの、いまだに世間一般では武田勝頼の評価は猪突猛進で御家を潰した将などと言われています。
しかし新府城のある韮崎では勝頼公と讃えられ、本丸があった付近には勝頼を祀る藤武神社が建立されており、桜の名所のひとつになっています。
訪問時(2022/08/05)には発掘調査も行われており、新たな発見に期待したいところです。
歴史的背景
その後の新府城
天正10年(1582)に甲斐に迫った織田徳川連合軍に対して、未完成の新府城では対抗できないと考えた武田勝頼は家臣の小山田信茂を頼って大月方面に落ち延びます。岩殿山城はかなりの防御力を誇る山城であり、そこで再起を図ろうとしていたと思われます。しかし武田家に先は無いと考えた小山田信茂は織田家に寝返り、勝頼に対して謀反を起こします。
追い詰められた勝頼は身内や数少ない手勢と共に天目山へ向かい、そこで織田家の滝川一益の軍勢と一戦交えますが衆寡敵せず、勝頼とその息子信勝らは自害し戦国大名武田家は滅亡します。
戦後甲斐国は織田家家臣の河尻秀隆に与えられ、秀隆は府中の岩窪館を本拠として統治を進めました。しかし秀隆が着任して間もなく、本能寺の変が勃発、織田信長、信忠が明智光秀の軍勢に討ち取られ、織田家とその領国は大混乱に陥ります。甲斐では統治開始から間もなかったため武田遺臣による国人一揆が発生、秀隆はなおも甲斐に留まり対処に追われますが、さらに甲斐を狙う徳川家康の謀略も重なり、武田遺臣が結集、秀隆は襲撃を受け戦死しました。
秀隆の死により空白化した甲斐には武田遺臣と通じた徳川家康や相模の北条氏直が進出し争奪戦になり、いわゆる天正壬午の乱が勃発しました。この時に徳川勢によって新府城は再利用され、本陣が置かれました。対する北条勢は若神子城に着陣して双方にらみ合いとなりました。その後北条徳川同盟が成立し甲斐国は徳川家康が領有することになります。
徳川氏もその後に甲斐を領有した豊臣系大名たちも基本的には甲府の躑躅ヶ崎館や後に築かれる甲府城を甲斐統治の拠点とし、新府城は顧みられることもなく廃城となりました。
アクセス
自家用車
中央自動車道韮崎ICから約20分
無料駐車場あり、新府公園駐車場をご利用ください↓
公共交通機関
JR中央線新府駅から徒歩約15分
参考文献・サイト
- 書籍
- 新府城パンフレット:新府城と七里岩
- サイト
- 新府城跡/韮崎市観光協会
新府城跡/韮崎市