館林城(たてばやしじょう)
~家康覇業の功臣が治めた北関東の要所~
Parameters of
this castle
館林城は、城沼を自然の要害とした平城で、別名を「尾曳城」といいます。館林城の形態は、城沼を城の東側外堀とし、沼に突出する低台地を区切って、城の中心である本丸、二の丸、三の丸、八幡郭、南郭を置き、これを囲むように、稲荷郭、外郭、惣曲輪を構え、さらに西方の台地に城下町を配置し、すべてを土塁や堀で囲んでいました。
豊臣政権下の天正18年(1580年)徳川家康の関東入封に伴って、徳川四天王の一人榊原康政が十万石で城主となり、江戸時代になると利根川をおさえることができる東北方面への要所とした。また、徳川綱吉が五代将軍になってからは、将軍を輩出した徳川宗家に関わる重要な地として江戸幕府に位置付けられ、最後の城主秋元氏まで江戸幕府の重鎮を務めた七家の居城として栄えた。
~館林城跡 市指定史跡(館林市)~より引用
基本情報
城名(別名) | 館林城(尾曳城) |
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築城主 | 享禄4年(1531)もしくは弘治2年(1556) |
築城年 | 赤井氏 |
カテゴリー | 江戸時代 安土桃山時代 平城 |
関連項目 | 赤井照光 北条氏規 長尾景長 徳川綱吉 城沼 榊原康政 上杉謙信 どうする家康 |
遺構 | 土橋門(復元) 三の丸土塁 本丸土塁 溝状遺構(移設復元) |
住所(所在地) | 群馬県館林市城町3−1 |
指定文化財 | 市指定史跡 |
構造物 | 土橋門(復元)、土塀(復元)、土塁、曲輪 |
問い合わせ先 | 館林市教育委員会 文化振興課文化財係 |
電話番号 | 0276-74-4111 |
ポイント
- 主な遺構 :
- 土橋門(復元)
- 三の丸土塁
- 本丸土塁
- 溝状遺構(移設復元)
- 土橋門(復元)
- 土橋門は、昭和58年(1983)に城下町・館林のシンボルとして土塀とともに復元されたようです。
城の中心部に通じる三の丸に設けられ、通用門として使われていたとみられています。
- 三の丸土塁
- 三の丸を囲うようにして配置された土塁で、一部が残っています。
特に土橋門を抜けた先にある土塁は門からカギの手城に伸びて城の中を見通すことができないように視界を遮っていて、『蔀土居』と呼ばれています。
この『蔀土居』は群馬県内に残る唯一の遺構として貴重なものになっています。
- 本丸土塁
- 本丸跡に残っている土塁で、本丸の南側を守っていたものの一部のようです。
この場所には3重の櫓があったことが江戸時代の絵図からわかっており、櫓台としても機能していたようです。
- 溝状遺構(移設復元)
- 発掘調査で発見された石組みの溝状遺構を移設・復元したものです。
発見された遺構は長さ約18m、幅約0.4mで人の頭より大きい石を並べて壁を作り、こぶし大から人頭サイズの自然石を底に敷き詰めていたようです。
水路として使われていたのでしょうか?
歴史的背景
館林城の築城には諸説あり享禄4年(1531)に赤井照光が築いたとも、弘治2年(1556)に赤井照康築いたとも、古文書により文明3年(1471)に上杉軍が立林城(館林城)を攻略したとの記述があるので、それ以前から築城されていたとも云われています(ただし、攻略した城は大袋城との説もある)。
又、伝説によると「天文元年(1532)、当時の大袋城主赤井照光が子供達に虐められた子狐を助けると一人の老人が現れ新たに城を築く事を強くすすめます。翌日一匹の老狐が現れ尾を引きながら城の縄張りをして城の守護神になることを約束して姿を消したそうです。照光は神意と悟り、新城を築くと尾曳城(後の館林城)と名付け、本丸から見て鬼門(北東)の方角に境内(稲荷郭)を設け尾曳稲荷神社を勧請し篤く信仰しました。」と伝えられています。
永禄5年(1562)に上杉謙信(春日山城の城主、関東管領。)が侵攻し館林城が落城すると赤井氏は武蔵忍城(埼玉県行田市)に退き没落、代わって上杉家に従った長尾景長が配されています。
天正6年(1578)に謙信が死去すると越後で跡継ぎ争い(御館の乱)が激化、上杉景勝が上野国を譲渡する事を条件に武田勝頼と講和した事で一時武田方に属しましたが、長尾顕長は天正8年頃に小田原北条氏に転じたようで、武田方の同盟者である佐竹義重が館林城を攻めています。
しかし、天正10年(1582)に織田・徳川連合軍が武田領に侵攻し、当主である武田勝頼が自刃、武田家が滅びた為、織田家家臣滝川一益に仕えましたが、同年に本能寺の変で織田信長が死去した事で一益は自領に引き上げた為、再び小田原北条氏に属しました。
天正11年(1583)には北条家から館林城の明け渡しが勧告され、顕長は同意し小田原城に出仕したところ、家臣達は抵抗運動を行った為、顕長は監禁されました。天正13年(1583)には反乱軍も鎮圧され、館林城は正式に北条方に接収されています。
天正18年(1590)の小田原の役では北条方の南条因幡守が守っていましたが豊臣方の石田三成、大谷吉継に攻められ開城、北条家が滅ぶと徳川家康が関東に入封し館林城には重臣である榊原康政(徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑)を10万石で配しています。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際、康政は徳川秀忠に従軍にし中山道を進軍、真田家が守る上田城(長野県上田市)攻めと悪天候により本戦には間に合わず、加増されなかったものの、引き続き館林領を任されています。榊原家は3代に渡り館林城の城主を歴任し、その間に城郭が大きく拡張され城下町、領内の整備も行われました。
寛永20年(1643)、榊原忠次が白河藩(現在の福島県白河市)14万石で移封になると正保元年(1644)に松平乗寿が館林藩6万石で入封、寛文元年(1661)に松平乗久が佐倉藩に移封になると徳川綱吉(3代将軍徳川家光の4男、後の5代将軍)が25万石で入封します。
綱吉時代に、館林城は藩庁、藩主居館としてさらに改修が加えられ本丸には3層の天守閣が聳え、複数の2層櫓も設けられ、徳川家一族の城にふさわしい城郭になったとされます。
天和3年(1683)、2代藩主となった徳川徳松が5歳で死去すると館林藩は廃藩となり、宝永4年(1707)に松平清武が2万4千石で入封し再立藩した際には石高に適するように館林城の規模も縮小されました。その後は太田家や松平(越智)家、井上家、秋元家など5万石から6万石の有力譜代大名が藩主を歴任しました。館林城は明治維新後、廃城となり多くの建造物が破棄され、さらに明治7年(1874)火災で焼失しました。
~館林城(尾曳城) – 群馬県:歴史・観光・見所~より引用
アクセス
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公共交通機関
東武鉄道「館林駅」徒歩10分
参考文献・サイト