高山城たかやまじょう

~飛騨統治の新たな要として築かれた近世城郭~

Shironav Master

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高山城は高山市街地の東方に位置する標高687.6mの丘陵地である城山に築かれた平山城です。
室町時代の後期に高山外記という人物がこの地に天神山城を築いたのが起源とされ、その後天神山城は永禄元年(1588)に三木(姉ヶ小路)自綱に攻め込まれ落城します。その後羽柴秀吉の命を受けた金森長近が飛騨に攻め入り三木氏を滅ぼして飛騨一国を掌握すると統治拠点となる城の築城に着手し、16年の歳月をかけて城山の地に高山城を築きました。
全国でも屈指の平山城と言われていた高山城でしたが、元禄5年(1692)に金森頼旹(よりとき)が突如出羽上山への転封を言い渡され金森氏6代107年続いた飛騨高山藩は廃藩となります。高山城は金沢藩前田綱紀の預かりとなりましたが元禄8年(1695)に幕府から命令によって金沢藩の徹底的な破却に遭い廃城となりました。

【目次】
基本情報
縄張図・鳥観図
ポイント
歴史的背景
アクセス
参考文献・サイト

基本情報

城名(別名)高山城(天神山城)
築城主金森長近
築城年天正16年(1588)~慶長8年(1603)
カテゴリー江戸時代 安土桃山時代 平山城 
関連項目金沢藩 桝形 飛騨高山 金森長近 石垣 復元遺構 
遺構本丸&復元石垣 石垣(遺構) 大手門石垣&枡形(復元) 二ノ曲輪 号砲平(塩蔵) 
住所(所在地)岐阜県高山市城山
指定文化財県指定史跡
構造物石垣(復元と遺構)、曲輪、土塁、大手門と枡形(復元)
問い合わせ先高山市役所 教育委員会事務局 文化財課
電話番号0577-35-3156

縄張図・鳥観図

現地案内板より
こちらは城の中心部分の図になります。
二ノ丸屋形となっている部分が現在の駐車場や公園になっていて、さらにその下に三ノ丸があります。

ポイント

主な遺構 :
本丸&復元石垣
石垣(遺構)
大手門石垣&枡形(復元)
二ノ曲輪
号砲平(塩蔵)
本丸&復元石垣
本丸とされる平坦地では復元された石垣を見ることができます。
ちょうど時期だったので紅葉が見事でした。
石垣(遺構)
元禄8年(1695)幕府直轄領になるにあたって前田綱紀へ高山城の破却が命じられ、それに従った金沢藩によって徹底的な破却がなされ、城全体に渡って張り巡らされていたと思われる石垣もその大部分が撤去されてしまいました。
しかし全てを撤去するのは不可能であったのか、城内にはところどころに石垣の残骸のようなものが確認できます。
大手門石垣&枡形(復元)
巨石を利用した立派な門とその後ろに控える枡形ですが、これは金森長近が高山城を築城した際に作られたものではなく、昭和44年(1969)に公園整備の一環として作造されたものになります。
したがって歴史的価値が高いとは言えませんが、その規模でどっしりと構える石門は非常に見ごたえがあります。
実際の大手道はこの大手門に向かって右側にあったと言われています。
二ノ曲輪
かつての二の曲輪であった平坦地は、現在では公園と駐車場になっており、中央には金森長近公像が建てられています
号砲平(塩蔵)
こちらは号砲平と呼ばれている平坦地で、高山城の曲輪の一つであったようです。
塩蔵と名付けられていますが、詳細はわかりません。
会津若松城のように籠城戦に備えて塩を備蓄する蔵があったのでしょうか?

歴史的背景

三英傑に仕え乱世を渡りきった金森長近

金森長近は美濃国多治見郷大畑村に生まれ近江国金森村に移り住み、この時に金森の姓を名乗り始めたようです。永禄2年(1559)に信長が上洛するまでには織田家に仕えていたとみられます。
元々は「可近」と名乗っていましたが、信長から諱字を与えられ、以後「長近」に改めたようです。美濃出身ということもあり信長の美濃経略に活躍し馬廻衆(赤母衣衆)に取り立てられ元亀3年(1572)ころまでには木下秀吉や丹羽長秀らと肩を並べるまでに出世し、以後は部隊指揮官として活躍していきます。
天正3年(1575)の長篠の戦いでは酒井忠次と共に別働隊を率いて武田方の鳶ヶ巣山砦攻撃に参加し功を上げたようです。その後北へ転戦し越前一向一揆を討伐し大野郡を平定、功績を認められて大野郡のうち2/3を与えられ越前大野城を居城としました。以後は北陸方面軍を統括する重臣柴田勝家の与力としてその指揮下に入り、主に上杉家と対峙します。天正10年(1582)の甲州征伐の際には飛騨口から武田領への侵攻する大将を命じられています。
武田氏滅亡直後に本能寺の変が勃発し、信長、信忠父子が討たれます。長近自身は変の勃発時に所領の大野郡にとどまっていたようですが、嫡男の長則(義入)は信忠に近侍していたため二条御所で討死してしまいました。山崎の戦いで明智光秀が滅びた後は柴田勝家に従っており、賤ヶ岳の戦いの際は佐久間盛政に属して秀吉方と戦いましたが、勝家方が敗北したため降伏し蟄居となります。のちに秀吉から赦され、これ以降は秀吉に従うようになりました。
天正13年(1585)になると秀吉は抵抗勢力である越中の佐々成政を征伐することを決め、長近もこれに従い越中へ出征、その後成政の同盟勢力で飛騨一国をほぼ統一していた三木氏(姉ヶ小路氏)攻めを命じられ飛騨へ侵攻、三木氏の軍勢を各所で破り降伏させることに成功します。この功績を認められ翌年に秀吉から飛騨一国(3万8000石)を拝領し、高山城の築城に着手します。

以後は秀吉の天下統一事業に従って各地へ出陣したり、禅宗や茶道に精通していたため秀吉の御伽衆を務めるなどしました。
慶長3年(1598)に天下人秀吉が没すると次第に家康に接近し、慶長5年(1600)の会津上杉氏征伐にも養子の可重と共に参陣し、西方で石田三成らが挙兵すると諸将と共に行動して関ヶ原合戦で西軍と戦いました。関ヶ原合戦の前哨戦である郡上八幡城の戦いでも金森氏は活躍していたため、戦後にこれらの戦功が認められて飛騨一国に加え美濃四郡のうち約2万石を加増されました。
慶長10年(1605)、既に齢80を超えていた長近は飛騨一国と高山城を養嗣子の可重に任せ、自身は加増された上有知に移り住み、そこでも内政に励み、重要伝統的建造物群保存地区として残る城下町を整備しました。
慶長13年(1608)京都伏見にて死去、享年85、乱世を生き切った生涯でした。

アクセス

公共交通機関
JR高山本線 高山駅より徒歩20分

自家用車
関東、長野方面から:中部縦貫自動車道 平湯ICから約50分
関西、名古屋方面から:中部縦貫自動車道 飛騨清見ICから約30分
登り口(城山公園)に20台ほど無料駐車場あり
※観光地でもありますので、時期によっては駐車場が満杯になっている可能性があります。

参考文献・サイト

書籍
谷口克広著 織田信長家臣人名辞典 第2版 吉川弘文館 2010年
サイト
高山城跡|高山市 - 高山市役所
飛騨 高山城-城郭放浪記
高山城
岐阜県史跡 飛騨高山城跡

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