小諸城(こもろじょう)
~日本で唯一の穴城~
Parameters of
this castle
平安末期、源義仲の挙兵に従った武将のひとり小室光兼が後に源頼朝に仕え、この地に宇頭坂城を築いたのが小諸城の起源とされる。その後南北朝時代に小室氏は衰退し、大井光忠が1487年宇頭城跡を整備し鍋蓋城を築き、その子が出城の乙女坂城を築いた。1543年武田信玄がこれを攻略し、山本勘助らに命じて鍋蓋城・乙女坂城を取り込んで拡張整備したと伝わる。豊臣政権成立後、1590年仙石久秀が城主となり礎石建物、瓦、石垣で構成された近代城郭に改修した。城は城下町より低い場所に城郭があるため「穴城」ともいわれる。天守台は織豊期の様相を残す初期の算木積が用いられ、信濃における最も古い石垣と位置づけられている。
~小諸城|日本100名城ガイドより引用~
現在日本100名城以外に日本さくら名所100選、日本の歴史公園100選にも選定されており、懐古園内には動物園も併設されています。
基本情報
城名(別名) | 小諸城(酔月城 穴城 白鶴城) |
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築城主 | 武田信玄、山本勘助(?) |
築城年 | 天文23年(1554) |
カテゴリー | 江戸時代 安土桃山時代 平山城 |
関連項目 | 三之門 武田信豊 懐古園 田切地形 大手門 仙石秀久 山本勘助 空堀 武田信玄 石垣 |
遺構 | 大手門 三之門 天守台 空堀 二の丸跡 |
住所(所在地) | 長野県小諸市丁311 |
指定文化財 | 重要文化財(大手門、三之門) |
構造物 | 石垣、虎口、曲輪、空堀、城門 |
問い合わせ先 | 小諸市懐古園事務所 |
電話番号 | 0267-22-1234 |
縄張図・鳥観図
現地案内板より
右端の大手門から左の本丸に向かって標高が低くなっており、城の玄関口である大手門がもっとも標高の高い場所にあり、本丸がもっとも低地になっています。これが小諸城が『穴城』と呼ばれる所以です。
ポイント
- 主な遺構 :
- 大手門
- 三之門
- 天守台
- 空堀
- 二の丸跡
- 大手門
- 小諸城の正門として慶長17年(1612)に仙石秀久によって創建されたと言われています。
明治維新後に民間に払い下げられ、料亭や小諸義塾の仮校舎として使用されていましたが、平成になってから小諸市に寄贈されました。
その後に実施された平成の大改修により仙石秀久が創建した当時の姿に甦っています。
- 三之門
- 慶長期から元和期(1596年~1624年)に、創建されました。寛保二年(1742)に千曲川流域を襲った「戌の満水(いぬのまんすい)」のとき、城下を流れる中沢川などの土石流により城下町の一部と共に流出しました。
その後、明和2~3年(1765~1766年)に再建されました。寄棟造りの二層の渡り矢倉門(多聞矢倉門)で、石垣も切込みはぎの石積みによって再建、築かれています。
~小諸城三の門/こもろ情報局より引用~
小諸城の顔ともいえる三之門ですが、令和2年7月8日未明の暴風雨が引き金となり、小諸城三之門の袖塀が土台の石垣ごと崩落しました。
国庫補助を受けて令和3年度より復旧工事が始まり、訪問時(2023年1月)も工事が進められていました。
- 天守台
- 本丸を囲う石垣は約6メートルの高さに築かれていますが、特に北西隅に迫り出した天守台の石垣は、一段高くひとまわり大きな野面石積みで築かれています。
豊臣秀吉天下統一の後、この天守台には金箔瓦で葺かれた三層の天守閣がそびえていたといわれます。
豊臣秀吉の五三の桐紋をあしらった軒丸瓦などが遺されており、秀吉子飼いの戦国武将、仙石秀久が小諸城主であったとき、関東に移封された家康に対して西の備えとして築かれたと考えられています。
しかし、寛永の初め頃に落雷により焼失後に、幕府の許しが得られず再建されることはありませんでした。
~小諸城天守台/こもろ情報局より引用~
- 空堀
- 小諸市付近には千曲川の本流が生み出した大きな渓谷に流れ落ちる河川や水流は、長い間に火山灰が堆積してできた丘陵を削って、崖で縁どられた高台が谷間に屹立する地形、すなわち田切地形が存在しています。その田切地形を取り込んで利用したのが小諸城です。
画像から一目瞭然ですが、田切地形の深い谷間を城の空堀として利用していたようで、その防御力は人力で掘った空堀とは比べ物になりません。
- 二の丸跡
- 関ヶ原合戦時に徳川本軍3万8千を率いた徳川秀忠は中山道を進み小諸城二の丸に本陣を構え、西軍に組した真田昌幸の上田城と対峙しました。
その二の丸は入り口(二の門)に枡形が配されており、ここに殺到した敵は周囲からの攻撃を受けることになります。
また二の丸の周囲は石垣で囲われていますが、その石垣の上も盛り土のようなものがなされており、土塁であると思われます。
歴史的背景
小諸城と武田信豊
武田信玄の実弟で信玄が最も頼りにした副将として知られる武田典厩信繁の嫡男である武田信豊は父が第四次川中島の戦いで討死するとその立場を受け継ぎ、武田の親族衆として家中で存在感を発揮しました。信玄の跡を継いだ勝頼の代となると父と同じく武田の副将として重きをなし、勝頼政権を支えました。
これまで武田信豊は、東信濃支配の要である小諸城主であったとする説が支配的でしたが、黒田基樹氏の研究により近年では否定されているようです。実際に小諸城を任されていたのは下曾根氏という一族で、下曾根氏は武田氏庶流の一族でした。勝頼期には下曾根浄喜(覚雲斎)が御一門衆として重用され、要所である小諸城の城代に任じられています。
勝頼政権下で信豊は武将として、また外交の場での取次役としても活躍し、上杉景勝との甲越同盟や佐竹義重との甲佐同盟成立に携わったようです。しかし長篠の戦いや高天神城の戦いで有力家臣や信望を失った武田家は次第に孤立化し、国衆の離反が相次ぐようになります。
信濃木曾郡の国衆である木曾義昌が織田信長に内通し武田家に反旗を翻すと、信豊は征討軍の将に任じられ木曽谷へ進軍しますが、織田家の援軍を得た木曾勢に鳥居峠で敗北し勝頼と共に新府城へ帰還します。
織田徳川連合軍による甲斐侵攻が現実的となると、勝頼は新府城放棄を決定し、小山田信茂の岩殿山城へ向かいます。その際に信豊は勝頼と別れ信濃方面へと逃れ、小諸城に入城して再起を図ります。
しかし小諸城代の下曾根浄喜は織田軍の勢いを前に武田家を見限ることを決め、二の丸にいた信豊を襲撃します。信豊と家臣らは奮戦しますが、衆寡敵せず、追い詰められ自害し果てました。浄喜は信豊の首を織田信長に進上して自らの保身を図りますが、信長によって誅殺されたようです。
アクセス
・自家用車
上信越自動車道『小諸IC』より6分
市営懐古園駐車場・臨時駐車場あり
市営駐車場は有料(普通車12時間以内 500円)
・公共交通機関
JR小海線・しなの鉄道 小諸駅から徒歩約3分
参考文献・サイト