岩櫃城(いわびつじょう)
~武田三堅城に数えられる真田の城~
Parameters of
this castle
岩櫃城は吾妻八景を代表する岩櫃山(標高八〇二メートル)の中腹東面に位置する山城で、城郭の規模は一・四キロ平方メートルと上州最大を誇りました。
年代などははっきりしていませんが、鎌倉時代初期に吾妻太郎助亮という人物によって築かれ、戦国時代には吾妻氏の子孫を称する斎藤憲次が城主になっていました。憲次の子憲広は上杉謙信が越山し上野に進出するとこれに従い、岩櫃城を中心に吾妻郡一帯を支配下に置きます。しかし同時期に武田氏による上野侵攻が開始され、憲広は上杉方としてこれに抵抗します。
永禄6年(1563)に武田信玄は真田幸綱(幸隆)に岩櫃城の攻略を命じ、幸綱は調略で斎藤氏の家臣を内応させるなどして岩櫃城を落城させました。これによって岩櫃城と吾妻郡は武田の手に落ち、信玄は幸綱に同地の守備を命じました。岩櫃城は要衝を抑える城として改修され、後に甲斐の岩殿城、駿河の九能城と並び武田領内の三名城と称されました(武田三堅城)。
時は流れ天正10年(1582)、岩櫃城は幸綱の3男真田昌幸が城主になっており、主家の武田家は織田・徳川連合軍に攻められ窮地に陥っていました。そこで昌幸は主君武田勝頼を岩櫃城に迎え入れ、武田家の巻き返しを図ろうとしました。しかし勝頼は甲斐の岩殿山城へ向かい、そこで城主の小山田信茂に裏切られ武田家は滅亡してしまいました。
主家が滅亡した真田家は大勢力の間で翻弄されながらも、上杉氏を通じて天下人豊臣秀吉の庇護下に入り何とか生き残りに成功します。岩櫃城は天正18年(1590)に後北条氏が滅亡すると昌幸の長男信幸の管理下に置かれ、出浦対馬守昌相が城代になり、沼田城と支城として機能しました。
関ヶ原の戦いの後、江戸幕府によって慶長20年(1615)に一国一城令が出されると岩櫃城も対象となり破却されました。
現在は国の指定史跡に認定され、続日本100名城にも選定されています。
基本情報
城名(別名) | 岩櫃城 |
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築城主 | 吾妻太郎助亮と伝わる |
築城年 | 鎌倉時代初期と伝わる |
カテゴリー | 鎌倉時代 室町時代 安土桃山時代 山城 |
遺構 | 本丸 堀切 竪堀 腰曲輪 |
住所(所在地) | 群馬県吾妻郡東吾妻町原町 |
指定文化財 | 国の史跡 |
構造物 | 曲輪、堀切、竪堀、虎口、櫓台、土塁 |
問い合わせ先 | 東吾妻町役場 まちづくり推進課 |
電話番号 | 0279-68-2111 |
縄張図・鳥観図
現地案内板より
現在残っているのは本丸を中心とした部分ですが、登る途中に曲輪などがあるそうです。
ポイント
- 主な遺構 :
- 本丸
- 堀切
- 竪堀
- 腰曲輪
- 本丸
- 本丸は広くなっており、櫓台もあったようです。
また南側には桝形虎口も配置されていました。
- 堀切
- 写真は少しわかりづらいですが、曲輪と曲輪を断ち切るように堀切が存在していました。
- 竪堀
- 下の方まで落ち込んでおり、ここを登るのはたやすいことではないと感じました。
- 腰曲輪
アクセス
公共交通機関
JR吾妻線 群馬原町駅から平沢登山口まで徒歩約35分
自家用車
関越自動車道 渋川伊香保ICから約40分で平沢登山口
無料駐車場あり(平沢登山口駐車場)
平沢登山口から約15分で岩櫃城本丸
参考文献・サイト