横須賀城よこすかじょう

~他に類を見ない玉石垣~

Shironav Master

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横須賀城は小笠山丘陵の先端部に当初山城として築かれ、松尾山を中心に本丸がありました。
徳川氏の高天神城攻略の本陣として築かれましたが、やがて遠江東部支配の拠点として活用されるようになり、山城から平城に移る中間期の特徴を備え、中世城郭と近世城郭のふたつを併せ持っています。さらに多くの城には1つしかない大手門が横須賀城には東西にあり「両頭の城」といわれたほか、「玉石積み」とよばれる丸い河原石を用いた石垣も特徴としてあげられます。

【目次】
基本情報
縄張図・鳥観図
ポイント
歴史的背景
アクセス
参考文献・サイト

基本情報

城名(別名)横須賀城(松尾城、両頭城)
築城主大須賀康高
築城年天正6年(1578)
カテゴリー江戸時代 安土桃山時代 平山城 
関連項目徳川家康 玉石垣 武田勝頼 
遺構石垣 土塁 天守台 三日月堀  
住所(所在地)静岡県掛川市西大渕5383
指定文化財国の指定史跡
構造物石垣、土塁、天守台、曲輪、三日月堀
問い合わせ先掛川市役所 文化・スポーツ振興課 文化政策室 文化財係
電話番号0537-21-1158

縄張図・鳥観図

現地案内板より
現在残っているのは本丸を中心とした主要部と背後の松尾山のみでそれ以外の曲輪は宅地化で消失しています。

ポイント

主な遺構 :
石垣
土塁
天守台
三日月堀
石垣
横須賀城の最大の特徴でもある天竜川の丸い川原石を積んで築かれた石垣、玉石垣と呼ぶそうです。
丸い石では崩れてしまうようにも思われますがしっかりとした作りになっていてかなりの高さもありました。
土塁
石垣の無い部分には土塁が配置されていてこちらもかなりの高さのある立派なものでした
天守台
本丸にある天守台です、1段高くなっています。
三層四階の天守閣があったと言われています。
三日月堀
本丸を一段折りて大手口方面に向かう途中にあります。
内堀の役割があったと思われます。
三日月堀と言えば武田の築城に多く見られますが、徳川氏が築城した本城になぜ三日月堀があるのかは謎です。

歴史的背景

高天神攻略の陣城から近世城郭へ

横須賀城築城の発端は遠江を巡る武田と徳川の争いにありました。天正2年(1574)武田信玄亡き後の武田家を継いだ勝頼が遠江への侵攻を開始、遠江支配の要であった高天神城を攻略します。
天正3年(1575)に長篠の戦いで武田家が大敗し勢力が減退すると徳川家康は高天神城の奪還を目指し高天神城の近くに付城(馬伏塚城)を築いて威圧と監視をします。
天正6年(1578)には大須賀康高に命じて本格的な陣城である横須賀城を築城、ここを中心として付城群を築くことで武田の補給を妨害するなどしてさらに高天神城を締め上げます。高天神城の窮状は勝頼にも届いていましたが、徳川だけでなく織田や北条といった敵に囲まれていた武田家は援軍を派遣することができず、これを知った武田領内の国人衆に動揺が走り、後の甲州征伐での相次ぐ裏切りに繋がったと言われています。
天正8年(1580)に家康は満を持して高天神城攻めを開始、城代の岡部元信と城兵約1000は激しく抵抗しますが、武田からの援軍は来ませんでした。半年近くの籠城戦の末、元信以下城兵らは敵陣に突撃を敢行してその多くが壮絶な討死を遂げ、ついに高天神城は落城しました。
その後横須賀城は遠江東部を支配する拠点として整備され、山城から平山城として城域を拡大させました。
城主は大須賀氏の後に豊臣系大名や松平氏、本多氏などが入封するなど紆余曲折ありましたが、最終的に譜代大名西尾氏が2万5千石で入封し明治維新まで存続しました。
明治2年(1869)に廃城とされ、土地、建物、石垣などが民間へ払い下げられてしまいますが、住民から城跡保存の声が上がり昭和56年(1981)に国の史跡として指定され保護整備されることになりました。

アクセス

公共交通機関
秋葉バスサービス利用
JR袋井駅前3番乗り場から秋葉中遠線「大東支所」行又は「横須賀車庫前」行で「七軒町」下車、徒歩5分

自家用車
東名高速道路 掛川ICから約20分
無料駐車場あり(横須賀城公園駐車場)

参考文献・サイト

サイト
横須賀城-掛川市観光サイト
遠江横須賀城-城郭放浪記
横須賀城-埋もれた古城

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