白鳥城しらとりじょう

~東西富山平野を眺望する要衝の山城~

Shironav Master

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富山平野を東西に二分する呉羽山丘陵の最高峰城山山頂(標高145.3m)に所在する山城で、御服山・五福山とも呼ばれました。東西を見渡せる軍事上の要衝でした。城名は東麓に鎮座する白鳥神社に由来するとされています。

文献に表われるのは『源平盛衰記』で寿永2(1183)年、木曽義仲の武将今井四郎兼平が山上に陣したとされるのが初見で、『太平記』では康安2(1362)年に越中守護であった桃井直常と戦った加賀・越前の軍勢が拠っているなどの記事があります。

城は、上杉謙信の越中進攻時、神保長職が築城した(『越登賀三州志』)とも、天正6(1578)年神保八郎左衛門が居住したとも伝えます。神保氏は戦国期に射水・婦負郡に勢力を有した国人で、富山城を築いた天文12(1543)年頃に、その詰城として白鳥城が築城されたと推測されます。

天正13(1585)年には富山城に拠る佐々成政を討伐するため、羽柴秀吉が本陣を置き、丘陵下の安田城(国史跡 富山市婦中町)、大峪城(旧五福小学校)が出城として築かれたと考えられています。成政降伏後は婦負郡を領有した前田氏が支配しました。廃城は慶長年間(1596から1615)と考えられています。

山頂部の主郭を中心に、18ヶ所の郭と14の虎口を設け、要所を堀切や空堀で守り、斜面を切崖状にした堅固なものでした。土造りの城郭としては最高水準の築城技術であり、このような城郭は在地の武将の城郭にはなく、織豊政権の武将が築いたと考えられます。
現在も空堀りや土塁などが良好に残されています。
白鳥城跡-富山市公式ウェブサイトより引用

富山県のお城調査のパイオニアでもある佐伯哲也氏によれば、現存遺構は佐々成政討伐後の前田利家によって大改修されたものの可能性が高いとのことです。

公園化整備の際に、本来の大手道など進入路を無視した改変がなされ、一部堀切や切岸を破壊してハイキングコースが作られている点や、遺構に対する整備がなされていないため横堀・大堀切などが藪に覆われて見づらくなってしまっているのが少し残念というのが訪問時の感想です。
歴史的価値を見直した上で、再整備が進められることに期待したいです。

【目次】
基本情報
縄張図・鳥観図
ポイント
アクセス
参考文献・サイト

基本情報

城名(別名)白鳥城
築城主神保長職
築城年天文年間頃?
カテゴリー鎌倉時代 室町時代 安土桃山時代 山城 
関連項目越中攻め 安田城 神保長職 佐々成政 前田利家 今井兼平 豊臣秀吉 
遺構空堀 土塁 曲輪   
住所(所在地)富山県富山市呉羽町25
構造物曲輪、土塁、空堀、桝形虎口、横堀、櫓台
問い合わせ先富山市役所
電話番号076-431-6111

縄張図・鳥観図

現地案内板より
空堀・土塁・曲輪などを複雑に組み合わせた非常に技巧の高い山城であることがわかります。

ポイント

主な遺構 :
空堀
土塁
曲輪
空堀
東と北の入り口付近の空堀には案内板があります。
ほかにも本丸直下の横堀や西側の大空堀など素晴らしい堀がいくつもあるのですが、いかんせんほとんどが藪に覆われており写真では全くわかりません(;^ω^)
実際に訪問して確認してみてください
土塁
大規模な土塁などもありますが、こちらも例に漏れず、藪に覆われているものが多いです。
曲輪
主要な曲輪には案内板が建っています。
巡る際の目安になるのでわかりやすいです。

アクセス

自家用車
富山西ICからしらとり広場駐車場まで約10分
しらとり広場駐車場は無料駐車場で数台停めることができ、トイレも併設されていますのでおすすめです。

公共交通機関
JR高山本線 西富山駅から徒歩約35分

参考文献・サイト

書籍
佐伯哲也,縄張り図でめぐる富山の城①: 白鳥城,富山市教育委員会, 2015
サイト
【白鳥城を歩く】枡形虎口や横堀で徹底防御の織豊系の山城【富山市】-堀切もえの城跡探訪
白鳥城跡-富山市公式ウェブサイト

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