忍城おしじょう

~石田三成の水攻めを耐えた忍の浮き城~

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忍城は室町時代の15世紀後半にこの地を収めた豪族の成田氏によって築城されました。周囲に元荒川・星川が流れていて自然の堀をなし、湿地帯の地形を利用した難攻不落の城であり、関東七名城の1つにも数えられます。
戦国時代の末期に関東平定を目論む豊臣秀吉の家臣、石田三成らによる水攻めを受けますが、よく持ちこたえて、主家である後北条氏の小田原城が降伏するまで落城しませんでした。
秀吉の関東平定後は徳川家康が関東に配置され、忍城には松平家忠という人物が城主に任命されました。その後家康の4男松平忠吉や家光の治世で知恵伊豆と呼ばれた松平信綱など幕府の重要な人物たちが忍城に配置されました。老中も務めた阿部忠秋が城主となると以後185年間にわたって阿部氏が忍の地を収めました。江戸時代後期には再び松平氏が城主となり、そのまま明治維新を迎えました。
明治6年(1873)の廃城令によって忍城は解体されてしまいましたが、本丸土塁の一部や櫓の石垣に使われた間知石が残されています。また昭和63年(1988)に行田市郷土博物館とその一部として御三階櫓が再建され、内部では行田市に関する展示などを見ることができます。

【目次】
基本情報
縄張図・鳥観図
ポイント
歴史的背景
アクセス
参考文献・サイト

基本情報

城名(別名)忍城(浮き城、亀城)
築城主成田氏
築城年15世紀後半
カテゴリー水城 平城 
関連項目関東七名城 成田長親 石田三成 のぼうの城 北条氏政 
遺構御三階櫓(復元) 土塁 石垣   
住所(所在地)埼玉県行田市本丸17-23
指定文化財埼玉県指定旧跡
構造物土塁、堀、曲輪、石垣、移築門、御三階櫓(復元)、模擬門(復元)
問い合わせ先行田市郷土博物館
電話番号0485545911

縄張図・鳥観図

行田市郷土博物館パンフレットより
元々忍の地は湿地帯で、沼地に島が存在するような地形でした。
忍城はこの沼地を埋め立てることなく天然の堀、島を曲輪として利用し、間に橋を架けて移動を可能にしていました。
そのため堀が多く、難攻不落の城であるということが図からも見て取れます。

ポイント

主な遺構 :
御三階櫓(復元)
土塁
石垣
御三階櫓(復元)
御三階櫓(おさんがいやぐら・ごさんがいやぐら)は、江戸時代の武家諸法度や一国一城令の発布により、天守の存在しない城にあった三重櫓の名称で、幕府への配慮から天守とは称さなかった「実質上の天守」とみなされていました。
忍城の御三階櫓は文献や絵図を参考に鉄筋コンクリート構造で外観復興されたものです。
土塁
本丸跡の周囲に土塁が残っています。土塁の上の土塀は復元されたものです。
石垣
江戸時代に櫓などを支えていた石垣が一部残されています。
藩校「進修館」の表門であったとされる門で現存している武家表門になります。

歴史的背景

城主成田氏と豊臣秀吉の関東征伐
成田氏は当初、関東管領山内上杉氏の家臣として活動していましたが、後北条氏が台頭してくると、没落した山内上杉氏を見限って後北条氏の家臣となります。
やがて越後の上杉謙信が越山し関東に攻め込んでくると、その勢いを見て謙信の麾下に馳せ参じ、後北条氏の本拠地である小田原城攻めにも参加します。しかし謙信の不興を買うと北条氏へ寝返り、怒った謙信に忍城を包囲され、さらに城下に放火されるなど苦境に陥りますが落城せず持ちこたえました。

天正18年(1590)になると天下統一を目前にした豊臣秀吉と後北条氏との間での交渉が決裂し、秀吉による関東征伐が始まります。成田氏の当主である成田氏長は小田原城で籠城することとなり、忍城は氏長の叔父に当たる成田泰季が城代として籠城しました。しかし成田泰季は戦いの最中に急死してしまい、その子成田長親が籠城方の総大将に立てられました。
忍城には石田三成、長束正家、大谷吉継らが攻め寄せ包囲、その後北国勢の前田利家、上杉景勝、真田昌幸や浅野長政が合流し忍城を攻撃しますが、湿地帯や川を天然の堀として活用する忍城を前に攻めあぐねることになります。これを聞いた秀吉は三成に対して忍城を水攻めにするよう指示を出します。三成はこれに従い、全長28キロにも及ぶ堤防(石田堤)を4~5日という短期間で築き利根川の水を忍城へ流し込む水攻めを敢行しました。しかし入念な準備にもかかわらず、予想に反して忍城の本丸は水没することなく持ちこたえました。また籠城方が堤防の一部を破壊し、水の流出によって豊臣方に損害を与えました。このようにして水攻めは失敗、また水の抜けた忍城周辺は泥沼と化し、城攻めをさらに難しくさせました。
石田三成らが忍城を攻めあぐねる間に小田原城が降伏・開城し後北条氏が先に滅亡してしまいます。また他の後北条方の支城もことごとく落城し、残っていたのは忍城のみという状況でした。そのため秀吉は成田氏長に降伏を呼びかけさせ、成田長親らは降伏を決意し、ついに開城しました。

アクセス

公共交通機関
JR高崎線行田駅(東口)から
・市内循環バス西循環コース(右回り)「忍城址・郷土博物館前」下車すぐ
・市内循環バス西循環コース(左回り)「行田市バスターミナル」下車徒歩約5分
・市内循環バス観光拠点循環コース「行田市バスターミナル」下車徒歩約5分
JR高崎線吹上駅(北口)から
・行田折返し場・行田市駅・総合教育センターゆき朝日バス(前谷経由)「忍城」下車すぐ
・行田折返し場・総合教育センター・工業団地ゆき朝日バス(佐間経由)「新町1丁目」下車西へ徒歩約10分
秩父鉄道「行田市駅」(南口)から徒歩約15分
自家用車
・東北自動車道「羽生」ICより約25分
・関越自動車道「東松山」ICより約40分 
・圏央道「桶川北本」ICより約30分
無料駐車場あり

行田市郷土博物館入館料
・個人 一般200円、大学・高校生100円、中学・小学生50円
・団体(20名以上) 一般160円、大学・高校生80円、中学・小学生40円

参考文献・サイト

書籍
パンフレット:行田市郷土博物館
サイト
忍城址・行田市郷土博物館|埼玉県公式観光サイト ちょこたび埼玉
忍城|行田市観光NAVI

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