松本城まつもとじょう

~漆黒の天守を持ち国宝五城に数えられる~

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松本城は室町時代に信濃守護として松本地方一帯を勢力圏としていた小笠原貞朝が家臣の島立貞永に命じて築城させた深志城に始まります。小笠原氏はその後の戦国時代に甲斐の武田晴信の侵攻を受けて没落し、松本の地を追われます。
武田氏が滅亡した後に発生した本能寺の変に端を発する甲斐信濃の動乱(天正壬午の乱)に乗じて小笠原貞慶が深志城を回復し名を松本城と改めました。その際に徳川家康の支援を受けたため、小笠原氏は以後徳川家の影響下に入ります。
豊臣秀吉による小田原北条氏征伐の後に関東に移封された家康に従い、小笠原貞慶も下総へ移ると、松本城には石川数正が封じられます。数正とその子康長の時代に天守や御殿、太鼓門などが建てられ、同時に城下町も整備され、松本城は近世城郭の基礎を築くことができました。
しかし家康が江戸幕府を開くと石川康長は改易されてしまい、小笠原貞慶の子秀政が松本城主となりました。小笠原秀政が大坂の陣で戦死するとその子忠真が継ぎますが、加増転封によって松本の地を離れ、松平康長や水野家が松本藩を統治しますが、最終的に戸田松平氏が藩主となり幕末まで存続しました。
明治維新後は天守が競売に掛けられ解体の危機が到来しますが、市川量造をはじめとする市民の尽力によって解体を免れ、現代まで現存することができました。
平成18年(2006)には日本100名城に選定されています。

【目次】
基本情報
縄張図・鳥観図
ポイント
歴史的背景
アクセス
参考文献・サイト

基本情報

城名(別名)松本城(深志城)
築城主小笠原貞朝、島立貞永
築城年永正元年(1504)
カテゴリー室町時代 江戸時代 安土桃山時代 平城 
関連項目どうする家康 小笠原貞慶 武田信玄 石川数正 現存十二天守 国宝五城 日本100名城 
遺構大天守 乾小天守、渡櫓 月見櫓 狭間、石落とし 太鼓門、黒門(共に復元) 
住所(所在地)長野県松本市丸の内4−1
指定文化財国宝
構造物天守閣、小天守、櫓、水堀、石垣、城門(復元)
問い合わせ先松本城管理事務所
電話番号 0263-32-2902

縄張図・鳥観図

現地案内板より
現在城址公園として残っているのは本丸、二の丸とその間の内堀(水堀)です。

ポイント

主な遺構 :
大天守
乾小天守、渡櫓
月見櫓
狭間、石落とし
太鼓門、黒門(共に復元)
大天守
松本城の天守構造は5重6階の天守を中心にし、大天守北面に乾小天守を渡櫓で連結し、東面に辰巳附櫓・月見櫓を複合した複合連結式天守になります。
大天守の外観は一見5層で、上へ向かうにつれ、建物が細くなる層塔型のような造りですが、内部には、屋根裏部屋のような中3階が存在するため、実際には6層で構成されています。
これは、望楼型とよばれる構造で、外観は層塔型でありながら、実際は望楼型という特徴的な造りになっています。
乾小天守、渡櫓
乾小天守は大天守と渡櫓で連結されていて、内部には丸太柱が多用されています。
乾子天守も望楼型の構造のため、外観は3層に見えますが、内部は4階の造りです。
4階にある火灯窓(かとうまど)は、火を嫌うことから花頭窓とも呼ばれ、天守建築では格式の高い窓とされています。(画像の花頭窓は辰巳附櫓のものです)
月見櫓
月見櫓は、三代将軍徳川家光が善光寺に参拝する途中で、松本に立ち寄るという内意を受けたため、当時の藩主松平直政が建てたと言われています。大天守から辰巳附櫓を経て突き出す形になった櫓になります。赤い欄干を配しており、戦闘を意識していない風雅な雰囲気を持っています。家光の善光寺参拝は中止になりましたが、天守に付属する月見櫓としては全国でも類を見ない遺構です。
特徴である赤い欄干は定期的に塗り直しているそうで、訪問時には塗装のための足場が組まれていました。
狭間、石落とし
主に大天守に配置された防御機能であり、増築された櫓にも一部配置されています。
太鼓門、黒門(共に復元)
太鼓門は二の丸、黒門は本丸の出入り口を固める城門で、構造は桝形虎口になっています。
太鼓門では時の城主である石川康長が自ら陣頭指揮をして運び込んだとされる巨石(玄蕃石)を見ることができます。

歴史的背景

天守保存に尽力した人々
明治維新によって武士の時代が終わると、各地の城は旧物破壊思想の元で払い下げ、解体の憂き目に遭いました。
その流れは松本城も例外ではなく、明治5年(1872)に天守が競売にかけられてしまいます。
松本城が破壊されることを憂えた市川量造ら地元の有力者たちは幾多の困難を克服して天守の買戻しに成功します。
しかしその後の松本城は放置され荒廃が進み、明治30年代頃より天守が大きく傾き、倒壊の危機を迎えてしまいます。
松本城の倒壊を防ぐため、松本中学校の校長小林有也を中心に天守保存会が結成され修理費の寄付を募って明治の大修理が実施されました。
また太平洋戦争後に進駐してきたGHQの美術顧問チャールズ・ギャラガーが昭和21年(1946)に松本城を視察し、早急な解体調査が必要との提言を行い、これを受けて昭和の大修理と呼ばれる解体復元工事が実施されました。
このようにして多くの人々の尽力と支援によって松本城は現存天守を現在まで保っています。

烏城(からすじょう)という別名は誤り
松本城といえば外壁面上の板に塗られた黒漆の色が特徴的なため、しばし烏城(からすじょう)と呼ばれることがありますが、文献上で「烏城」と呼ばれた記述は実は残っていません。
そのため松本城の別名は烏城ではないというのが松本城管理事務所の公式見解となっています。

アクセス

自家用車
長野自動車道 松本ICから国道158号を松本市街地方面へ向かい約3.5km(約20分)
付近に有料駐車場あり

公共交通機関
<電車>JR篠ノ井線「松本駅」下車 徒歩約20分
東京から:JR中央本線・篠ノ井線 特急あずさ利用で約2時間30分
名古屋から:JR中央本線・篠ノ井線 特急しなの利用で約2時間
大阪から:東海道・山陽新幹線利用、名古屋駅から特急しなの利用で約3時間30分
<バス>
松本周遊バス「タウンスニーカー」北コース
「松本駅お城口」発 → 「松本城・市役所前」下車 乗車時間約10分
路線バス
美ヶ原温泉線、浅間線、岡田線、アルプス公園線
「松本バスターミナル」発 → 「松本城・市役所前」下車 乗車時間約10分

参考文献・サイト

書籍
パンフレット:国宝松本城
サイト
国宝 松本城
国宝五城「松本城」の歴史と特徴
国宝 松本城|新まつもと物語

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