興国寺城こうこくじじょう

~伊勢新九郎旗揚げの城~

Shironav Master

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    興国寺城は、根古屋と青野の境にある、篠山という愛鷹山の尾根を利用して築かれており、愛鷹山南麓のローム層の特徴を生かした築城がなされています。
    戦国時代に関東一円を支配した後北条氏の祖である伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)が今川家の家督争いでの活躍によって富士郡下方12郷を与えられ、興国寺城を居城として旗揚げしたと言われています。
    戦国時代には甲斐、駿河、相模の境目の城として各勢力が争奪戦を繰り広げ、武田家が支配権を得ます。
    天正10年(1582)に武田家が滅亡すると徳川家、次いで豊臣家の支配下に置かれ、関ヶ原合戦後に徳川家臣の天野三郎兵衛康景に与えられ興国寺藩が立藩します。
    しかし数年後に康景は出奔してしまい、藩は改易、興国寺城はそのまま廃城となりました。

    現在は国の史跡に指定され、整備に伴う発掘調査も行われています。
    また日本城郭協会が選ぶ続日本百名城にも選定されました。

    【目次】
    基本情報
    縄張図・鳥観図
    ポイント
    歴史的背景
    アクセス
    参考文献・サイト

    基本情報

    城名(別名)興国寺城(根古屋城)
    築城主不明
    築城年室町時代後期
    カテゴリー室町時代 江戸時代 安土桃山時代 平山城 
    遺構大土塁 空堀 石垣 天守台  
    住所(所在地)静岡県沼津市根古屋
    指定文化財国の史跡
    構造物曲輪、石垣、土塁、空堀、天守台
    問い合わせ先沼津市 観光交流課
    電話番号055-934-4747

    縄張図・鳥観図

    興国寺城跡ガイドブックより
    本丸を囲う大土塁や本丸背後の空堀が見ごたえあります。

    ポイント

    主な遺構 :
    大土塁
    空堀
    石垣
    天守台
    大土塁
    本丸を囲うように配備された土塁です。
    実際に見るとかなり高さ大きさがあり威圧感を感じました。
    空堀
    本丸の背後を固める空堀で幅は20m以上、深さは15m以上という大きさになります。
    石垣
    天守台とされる場所に石垣がありました、野面積みのようです。
    天守台
    天守台とされる場所には礎石が見て取れました。

    歴史的背景

    伊勢新九郎旗揚げまでの道程

    一般的に北条早雲の通り名で知られる伊勢新九郎盛時(宗瑞)ですが、本人は終生”北条”を名乗ったことは無く、常に伊勢を名乗っていました。彼の跡を継いだ氏綱の代から北条を名乗るようになり、それと出家した際に号した早雲庵宗瑞という号から北条早雲という名が後世になって定着していったと思われます。
    また一介の素浪人から下剋上で戦国大名にのし上がったというイメージもありますが、当の本人は室町幕府政所執事を務めた伊勢氏の支流の出であり、備中国に所領も持っていました。また伊勢新九郎盛時の名で室町幕府に出仕した記録もあり、素浪人というよりは幕府の官僚という立ち位置でした。

    駿河国守護の今川義忠に姉である北川殿が嫁いだことで今川氏の縁者となった新九郎でしたが、その今川義忠が遠江へ攻め込み討死、残された嫡男の龍王丸はまだ幼く、今川家中では別の後継者(小鹿範満)を擁立する一派も現れ家督争いが勃発しました。ここに関東の勢力である堀越公方足利政知と関東管領上杉氏が介入し小鹿範満派が優勢となります。
    堀越公方や関東管領の勢力が駿河に及ぶことを嫌った室町幕府は今川家の縁者で龍王丸の叔父に当たる伊勢新九郎らを駿河に下向させ家督争いに介入しました。
    新九郎は双方の仲介を行い、龍王丸が成人するまでの間は範満が家督代行することで家督争いを終結させ、関東勢(上杉政憲、太田道灌ら)を駿河から撤兵させることに成功したと言われています。
    調停を終えた新九郎は京都へ戻り、室町幕府9代将軍足利義尚の直属の部下に当たる奉公衆に任じられました。

    時が経ち、龍王丸が15歳を迎え成人しても範満とその一派は駿河館に居座り家督を譲ろうとはしませんでした。そのため新九郎は再び駿河に下向し龍王丸を補佐すると共に石脇城に入って兵を集めます。長享元年(1487)にはついに兵を起こし、館を襲撃して範満らを殺害、龍王丸を駿河館に迎え入れ家督を継承させます。2年後に元服した龍王丸は氏親を名乗り正式に今川家当主となりました。
    家督争いを龍王丸側の勝利に導いた新九郎はその功で伊豆との国境近くの興国寺城と付近の所領を与えられた、、とされていますが、この通説には同時代の資料による裏付けがなく、そのため別の城を居城としていたなどの説も唱えられています。
    しかし今川家臣として駿河国守護代の地位を得たり、堀越公方の直臣となって所領を与えられたという記録があるので、駿東地域でなにかしらの地盤を得ていたことは確かと思われ、ここから伊豆討ち入りや小田原城奪取を経て関東で一大勢力を築くに至ったようです。

    アクセス

    公共交通機関
    JR東海道本線・原駅からバスに乗り「根古屋」バス停下車、徒歩3分

    自家用車
    東名高速道路・沼津ICから20分

    無料駐車場あり

    参考文献・サイト

    書籍
    興国寺城跡ガイドブック
    ゆうきまさみ,新九郎、奔る!,小学館, 2018
    サイト
    興国寺城跡/沼津市
    沼津市観光ガイド『興国寺城跡』
    興国寺城-Wikipedia
    北条早雲-Wikipedia

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