霞城(かすみじょう、かじょう)
~見事な石積と霞に守られた堅城~
Parameters of
this castle
奇妙山から伸びた尾根が崖となって千曲川に落ち込み、三方は断崖で囲まれた要害堅固な城で、松代町大室を領した大室氏の居城といわれる。松代と北信濃の関門というべき交通の要衝に築かれ、戦国時代のころは、海津城の北方を守護した。龍が出てきて城を霞で覆った伝説とは別に、城主の守り本尊の加護により敵が攻めてくると霞がかかり、攻め難かったことから「霞城」と名づけられたという説もある。
~ながの山城あるき 霞城跡~より引用
お城の位置は地元の人々が「向山(むかいやま)」と呼ぶ山の頂上にあり山全体が岩山となっています。
特筆すべきは岩山から採れる石を利用した石積が多用されている点であり、平地からの標高差が約70mということも併せて、戦国期山城の石積を比較的容易に体感できるお城であると言えます。
基本情報
城名(別名) | 霞城(大室城) |
---|---|
築城主 | 大室氏 |
築城年 | 不明 |
カテゴリー | 安土桃山時代 山城 |
遺構 | 石垣(大手門) 虎口 石垣(本丸付近) 堀切 |
住所(所在地) | 長野県長野市松代町大室 |
指定文化財 | なし |
構造物 | 石垣、虎口、曲輪 |
縄張図・鳥観図
石積が多用されているのが鳥観図からでもよくわかります。
図面の出典は余湖くんのホームページ様です。
ポイント
- 主な遺構 :
- 石垣(大手門)
- 虎口
- 石垣(本丸付近)
- 堀切
- 石垣(大手門)
- 石門登山口が登るとほどなくして大規模な石垣が施された大手門が見えてきます。
これだけの石垣が施された山城は長野県内でも珍しく、要因として向山が岩山だったため石が豊富に採取できたことが考えられます。
- 虎口
- 大手付近の一角に石垣を利用した虎口が配備されています。
虎口は攻め手に方向転換を強いることで勢いを削ぎ、また侵入できる敵の数を絞ることでその撃破を容易にするための防御施設です。
- 石垣(本丸付近)
- 大手を突破して少し登ると向山の尾根にぶつかります。
尾根沿いに登っていくと広く削平された郭群に到達します。
これらの郭群の周囲を囲む立派な石垣も見どころで、大手以外を通ってくる敵にも対処できたと推察できます。
- 堀切
- 尾根沿いから四の郭に上がる部分にだいぶ埋もれてはいますが、堀切を確認することができます。
長野県の山城といえば大規模な堀切を施している山城が多いですが、霞城の場合、石垣を多用できたので相対的に堀切の必要性が低下した結果、堀切はあまり配備されていないのではないかと思われます。
歴史的背景
大室氏に関して
城主の大室氏は信濃守護も務めた小笠原長清の末裔である時光が大室牧の牧監(牧の管理役人)となり、地名によって氏名とし、大室氏の始祖となりました。
戦国期には北信濃を席巻した村上氏の配下となりますが、その後村上氏を打倒した武田氏に属します。しかし武田氏は織田信長によって滅ぼされてしまい、大室氏は信長の家臣である森長可に仕えることで家名を保ちます。
最終的には本能寺の変後に川中島一帯に進出した上杉景勝の支配下に置かれ、その景勝が会津へ移封となるとそれに従って大室の地を離れ、霞城もその際に廃城になったとされています。
小笠原長清
甲斐源氏の一族出身であり、源平合戦の際、源頼朝に加勢して信濃守護小笠原氏の土台を築いた人物です。鎌倉幕府の公式歴史書である吾妻鏡によれば弓馬の術に優れていたとされ、弓馬術礼法小笠原流の祖という位置づけもされています。
アクセス
車:長野インターから永福寺口まで約10分
駐車場は永福寺口にしかありません。
永福寺を目的地にすればたどり着けると思います。
駐車場付近は民家が密集しており道も狭くなっていますのでご注意ください。
永福寺口からも登ることはできますが、攻め手の雰囲気を体験するなら永福寺口から10分ほど平地を歩いて石門登山口から登り、大手→本丸→永福寺口へ下山するルートをおススメします。
大室古墳群の古墳館からも霞城へのルートがありますが、少しわかりづらいです。
参考文献・サイト
- 書籍
- 中嶋豊,いざ!登る信濃の山城: 戦国の舞台イラスト案内図,信濃毎日新聞社, 2020
- サイト
- 霞城(信濃国)-Wikipedia
らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
余湖くんのホームページ
霞城跡トレッキング/ながの山城あるき
霞城跡/【川中島の戦い】史跡ガイド