福与城ふくよじょう

~武田の侵攻に抗った平山城~

Shironav Master

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    福与城は天竜川の東岸の河岸段丘に立地し、北は鎌倉沢、南は南沢の窪地によって東側以外は切り立った台地の上に築城されています。城域は標高710m、比高約40mにあり東西約330m、南北約440mの規模。上下2段の郭からなる本城と北城・南城の3つで構成されていました。
    戦国時代には藤沢頼親という人物が城主でした。武田晴信の諏訪侵攻が始まると頼親はこれに抵抗していました。しかし武田家臣の駒井高白斎に城を包囲され降伏、武田家に臣従します。
    頼親はその後離反し、林城の小笠原長時と組んで武田家に敵対しますが、天文14年(1546)には力尽きて降伏開城し、城は武田軍に接収され焼き払われました。

    【目次】
    基本情報
    縄張図・鳥観図
    ポイント
    歴史的背景
    アクセス
    参考文献・サイト

    基本情報

    城名(別名)福与城(箕輪城、鎌倉城)
    築城主藤沢氏
    築城年鎌倉時代と伝わる
    カテゴリー鎌倉時代 室町時代 安土桃山時代 平山城 
    遺構空堀 曲輪 土橋   
    住所(所在地)長野県上伊那郡箕輪町福与 福与城跡
    指定文化財県指定史跡
    構造物曲輪、堀、土橋、土塁
    問い合わせ先箕輪町役場・箕輪町観光協会
    電話番号0265-79-3171

    縄張図・鳥観図

    現地案内板より
    北城、本城、南城と別れていましたが、現在南城の大部分は農耕地化によって消失しています。

    ポイント

    主な遺構 :
    空堀
    曲輪
    土橋
    空堀
    南城から本丸の間にある空堀は巨大で堀底に降りることもできるので見やすいです。
    曲輪
    平山城ということもあり曲輪はどれも広々としています。
    また堀底から曲輪へ登る坂道(画像3)は切岸のように急坂となっており直接登るのは困難であったと思われます。
    土橋
    南城と本丸を結ぶ土橋です。
    なぜかくり抜かれて土管が通っています(排水のため?)。

    歴史的背景

    藤沢頼親という人物

    前述のとおり、天文14年(1546)に福与城は武田家に接収され、焼き払われましたが、城主藤沢頼親は許され武田家に再び臣従します。
    しかし天文17年(1549)に武田晴信が上田原の戦いで村上義清に大敗するとこれ幸いと再び武田家から離反します。その後武田一門衆の穴山信友を通じて武田家に降り、またもや許されました。
    天文23年(1555)には小笠原長時と共に上洛し、当時畿内を席巻していた三好長慶に仕えたと言われています。長慶の死後は伊那谷に戻り、福与城の近くに田中城を築城し本拠と定めます。
    天正10年(1582)に武田家が滅ぶと福与城を奪還、続く本能寺の変で織田信長が横死し、甲斐信濃の情勢が不安定になると信濃に進出しようとしていた相模の北条氏直に通じますが、同じく信濃への進出を企図していた徳川家に味方する保科正直に田中城を攻められ一族と共に自害、藤沢氏は滅亡しました。

    アクセス

    公共交通機関

    JR飯田線木ノ下駅からバス、南小学校下車後、徒歩約15分

    自家用車

    中央自動車道 伊北ICから約15分
    無料駐車場あり(数台)

    参考文献・サイト

    サイト
    福与城とは-コトバンク
    信濃福与城(箕輪町)-城郭放浪記
    福与城跡|長野伊那谷観光局

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