福島正則屋敷跡ふくしままさのりやしきあと

~豊家随一の猛将、終焉の地~

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    福島正則屋敷跡は元和5年(1619年)、安芸・備後両国の大名福島正則が広島城の無断普請を理由に領地を没収され、信濃上高井郡2万石と越後魚沼群2万5千石を捨扶持として与えられ、高井野藩4万5千石(後に2万5千石を返上)が成立した際に藩庁として置かれた居館です。
    屋敷は103m×70mの方形単郭の平城で、四方に高土塁が築かれ、土塁の外に空堀が巡らせてあったとされています。
    現在屋敷跡の中央には高井山高井寺が建っています。

    【目次】
    基本情報
    縄張図・鳥観図
    ポイント
    歴史的背景
    アクセス
    参考文献・サイト

    基本情報

    城名(別名)福島正則屋敷跡(高井野陣屋跡、高井寺)
    築城主福島正則
    築城年1619年頃
    カテゴリー江戸時代 平城 
    遺構石垣 土塁 高井寺山門 福島正則供養塔  
    住所(所在地)長野県上高井郡高山村高井197
    指定文化財長野県指定史跡
    構造物土塁、石垣、高井寺、高井寺山門、福島正則供養塔

    ポイント

    主な遺構 :
    石垣
    土塁
    高井寺山門
    福島正則供養塔
    石垣
    こちらの石垣は江戸時代後期に高井寺が土塁や空堀を壊して新たに普請したものであり、福島正則の時代のものではありません。
    土塁
    屋敷跡の東北隅に高さ約2m、長さ約19mのものが現存しています。
    高井寺山門
    福島正則供養塔

    歴史的背景

    福島正則は木下藤吉郎(のちの天下人豊臣秀吉)の親戚として少年期から小姓として秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いで活躍し名を上げます。
    その後も秀吉の天下統一を武の側面から支え、豊臣政権では清州24万石を与えられます。秀吉死後の関ヶ原合戦では文治派の石田三成との不和から徳川家康に味方し、戦後安芸・広島50万石に大幅加増されます。

    江戸幕府が成立すると、徳川家と懇意にしつつも、豊臣恩顧の大名として主家を立て、両家の間を取り持ちますが、大坂の陣によって豊臣家は滅ぼされてしまいます。
    さらに元和5年(1619年)に広島城の石垣などを無断修繕したことが武家諸法度違反とみなされ、安芸・広島の城地は没収、捨扶持として信濃上高井郡2万石と越後魚沼群2万5千石を与えられるという大減封の憂き目にあいます。
    高井野藩に移された正則は領内の検地を行い、高井野原の用水堰を開き、松川治水の築堤西条新田の開拓など民政に励み領民から慕われていたと言われています。

    高井野に流されてから約5年後の1624年に福島正則は64歳で病死します。この時、幕府の検死役が到着する前に家臣が遺体を火葬してしまったことを咎められ、家禄没収の上、大名としての福島家は取り潰しとなってしまいます。

    その後正則の子や子孫が幕府の旗本として取り立てられ、福島家は幕末まで存続しました。

    アクセス

    公共交通機関

    長野電鉄長野駅から須坂駅、長電バス堀之内下車、徒歩3分

    以下の案内板が目印です。

    自家用車

    上信越自動車道・小布施PAスマートICから15分

    ※高井寺に駐車場はありません

    参考文献・サイト

    サイト
    福島正則屋敷跡-Wikipedia
    信濃福島正則屋敷跡-城郭放浪記

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