月山富田城がっさんとだじょう

~11州の太守と讃えられた戦国大名尼子氏の居城~

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月山富田城は標高約190メートルの月山山頂に主郭部を設け、尾根上に大小多数の曲輪を配した複郭式山城です。菅谷口、御子守口、塩谷口の3方面からしか攻められず、城内郭の下段が落ちても、中段の山中御殿で防ぎ、そこが落ちても主山の月山に登って防ぎ、頂上には堀を築き守りを固めています。
戦国大名尼子氏の歴代当主が本城とし山陰・山陽制覇の拠点として重きをなします。
尼子氏滅亡後、毛利氏、吉川氏の時代には、山陰地方支配において、重要な役割を果たしました。関ケ原の戦いの後には、堀尾氏が月山富田城に入り、松江城に至るまで統治の拠点としました。

現在は国の史跡に指定され、2006年には「日本100名城」にも選ばれています。
また日本五大山城の1つとしても数えられています。

【目次】
基本情報
縄張図・鳥観図
ポイント
歴史的背景
アクセス
参考文献・サイト

基本情報

城名(別名)月山富田城(月山城)
築城主平景清、佐々木義清など諸説あり
築城年12世紀~13世紀(源平合戦~鎌倉時代初期の頃)
カテゴリー室町時代 安土桃山時代 山城 
関連項目山中鹿之助 尼子経久 
遺構七曲り(軍用道) 馬乗馬場(曲輪) 山中御殿平 石垣(山頂部) 本丸 
住所(所在地)島根県安来市広瀬町富田
指定文化財国の史跡
構造物石垣、土塁、切岸、曲輪、堀切、井戸、兵舎、馬場、軍用道
問い合わせ先安来市教育委員会文化財課
電話番号0854-23-3240

縄張図・鳥観図

現地案内板より
中腹の主要部である山中御殿に到達するまでもかなりの曲輪群を突破しなければならず、たとえ山中御殿を攻略したとしても七曲りと詰めの曲輪がまだ控えています。攻め手を奥へ奥へ引き込んで疲弊させることができるつくりだと感じました。

ポイント

主な遺構 :
七曲り(軍用道)
馬乗馬場(曲輪)
山中御殿平
石垣(山頂部)
本丸
七曲り(軍用道)
月山富田城の主郭部へ繋がる大変険しい登城道で、七曲り以外に本丸への道はありません。道の所々には曲輪が設けられ、防御を固めています。七曲りと呼ばれますが、実際には11カ所の曲りがあります。
馬乗馬場(曲輪)
北西に伸びる幅10~20メートル、長さ約140メートルの細長い曲輪は、馬の調練所であったと伝えられており、実際に訪れてみて確かに馬が走れるような平場であると感じました。写真ではわかりづらいですが、所々に石垣が施されており、先端には櫓があったと考えられています。
山中御殿平
月山の山麓にある広大な曲輪跡で、大手門を上がったところに3000平方メートル余りの平地があり、山城としては珍しい規模の大きさです。山中(さんちゅう)御殿といわれた建物のあったところで、上御殿平と下御殿平の2段からなる構造となっており、近世初頭には城主の居館があったと推測されています。平地と石垣の上下2段に分かれた構造をしています。
この場所は、本丸を目指す3方面からの登城口が合流する場所で、菅谷口と塩谷口には虎口を確認することができます。
また周囲は大規模な石垣で囲われており、これは吉川氏や堀尾氏が城主となった時代に築かれたものと考えられています。
石垣(山頂部)
七曲りを登った先にある曲輪が三の丸、その奥が二の丸となっており、それぞれの曲輪に石垣が施されています。特に三の丸の石垣は段になっており七曲りを登る攻め手への威圧にもなっていると感じました。
本丸
山頂部の最奥にある幅約20メートル、長さ約170メートルの曲輪で、中央部にある山中鹿介幸盛記念碑は、本丸跡に鹿介を偲び明治期に建立されました。
本丸の奥部には勝日高守神社が鎮座しており、月山富田城の歴代城主の信仰が厚く、特に尼子氏は熱心に信仰していました。
本丸からは城下町だけでなく遠くは日本海までも眺望することができます。

歴史的背景

出雲国(島根県東部)は室町時代初期には山名氏が代々守護を世襲していましたが、明徳の乱(1392年)によって山名氏が没落すると変わって京極氏が出雲国守護に任じられます。
守護といっても京極氏は他国の守護も兼ねかつ在京していたため、出雲国に赴任することは無く、統治の代理人として守護代を置きます。これに尼子持久が任じられ、彼は出雲国統治の拠点である月山富田城に入ります。
持久の孫である経久の代になると尼子氏は次第に京極氏や室町幕府からの命令を無視するようになり、寺社領を横領するなどして権力基盤の強化にまい進しますが、在地国人衆の反発を招き守護代の職を追われ月山富田城からも追放されたと言われています。
しかし経久は引き続き出雲国内で一定の権勢を保ち、反発する国人衆を各個撃破した後に京極氏と和解することで守護代の地位に復帰しました。
その後京極氏の直系が絶えると実質的な出雲の支配者として君臨し、戦国大名尼子氏として発展を遂げていくことになります。
謀聖と呼ばれた経久はその手腕で周防長門を支配した大内氏や但馬因幡に勢力を持つ山名氏、反旗を翻した毛利氏などとしのぎを削りながら中国地方で勢力を拡大していきます。そして経久の孫晴久の代には室町幕府13代将軍足利義輝から山陰山陽8ヶ国(出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後)の守護に任じられます。8ヶ国に加えて安芸・石見・播磨にまで影響力を及ぼした晴久は11州の太守と呼ばれ尼子氏の最盛期がやってきます。

しかし謀神毛利元就の台頭や新宮党の粛清による軍事力の低下、不安定な国人衆の動向など最盛期と共に数々の問題を抱えていた尼子氏は、当主晴久の急死によって凋落し、晴久の息子義久が家督を継ぐと間もなく、毛利元就の軍が尼子領に攻め寄せます。国人衆の離反や兵糧攻めによって追い詰められた義久はついに毛利軍に降伏し戦国大名尼子氏は滅亡します。
その後山中鹿之助(幸盛)を中心とした尼子遺臣団は、京で僧となっていた新宮党の遺児を担ぎ上げ尼子勝久と名乗らせ、尼子再興軍を組織し畿内を制圧した織田信長の支援を受けて羽柴秀吉と共に毛利軍と対決します。月山富田城の奪還を目指した尼子再興軍でしたが、毛利軍に上月城を包囲され勝久は自害、鹿之助は再起のため一時降伏します。しかし鹿之助の武勇を警戒した吉川元春の指示で暗殺されてしまい、ここに尼子再興の夢は潰えました。
↓太鼓壇にある山中鹿之助像

月山富田城は戦国期に実戦を経験した山城としても知られ、1度目は大内・毛利連合軍を2度目は毛利軍をそれぞれ撃退しており、難攻不落の名城として確固たる名声を得ています。

アクセス

・公共交通機関
JR荒島駅からイエローバス(広瀬行き)20分、市立病院前下車、山麓まで徒歩10分
JR安来駅からイエローバス(観光ループ)35分
JR安来駅からイエローバス(観光ループ)45分、市立病院入口下車、山麓まで徒歩10分
JR安来駅よりタクシー20分

・自家用車
中国横断自動車道「米子IC」を降りて約40分
無料駐車場(54台)

参考文献・サイト

サイト
月山富田城-Wikipedia
安来市観光ガイド/月山富田城跡
島根観光ナビ/月山富田城跡

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