備中松山城びっちゅうまつやまじょう

~現存天守を持つ唯一の山城~

Shironav Master

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全国には、天守が残っているお城が12城(現存天守12城)あり、備中松山城はその一つに数えられています。また、お城は、その立地から「山城」「平山城」「平城」と分類され、備中松山城は「山城」に分類されます。
 現存天守12城の中で「山城」の形態をとるのは、備中松山城だけであることから、備中松山城は、「天守の残る唯一の山城」ということができます。
標高430mの臥牛山頂上付近に建つ天守は、国の重要文化財で、現存天守を持つ山城としては最も高い所にあります。鎌倉時代、有漢郷(現高梁市有漢町)の地頭秋庭重信が大松山に城を築いたのを起源とし、1683(天和三)年に水谷勝宗によって3年がかりで修築され、今の天守の姿になりました。
登城坂の周囲は、高さ10m以上の巨大で切り立った岩壁がそびえ、昔日のつわものたちが舌を巻いた”難攻不落の名城”の面影をうかがい知ることができます。白い漆喰塗りの壁と黒い腰板のコントラスト、空の青に映える美しい天守。秋には大手門付近の木々が紅葉し、岩壁が燃えるような朱色に覆われる景色は圧巻です。
~高梁市公式ホームページより引用~

日本三大山城の一つとされており、平成30年7月豪雨の後に住み着き、「猫城主さんじゅーろー」として人気を集める猫がいることも話題になっています。
2016年にはNHK大河ドラマ「真田丸」のオープニング映像に、大手門付近の岩盤や岩盤上の石垣と土塀、天守などが登場しています。
真田氏とは直接関係のないお城ではありますが、険しい岩山の上に残る城郭が山深い真田氏の居城のイメージに近かったことからロケ地として選定されたようです。

【目次】
基本情報
縄張図・鳥観図
ポイント
歴史的背景
アクセス
参考文献・サイト

基本情報

城名(別名)備中松山城(高梁城)
築城主秋山重信
築城年1240年
カテゴリー鎌倉時代 室町時代 江戸時代 安土桃山時代 山城 
関連項目三村元親 三村家親 山田方谷 猫城主 二重櫓 重文七城 現存十二天守 
遺構石垣 枡形(大手門) 天守、二重櫓(国の重要文化財) 土塀(一部国の重要文化財)  
住所(所在地)岡山県高梁市内山下1
指定文化財重要文化財(天守、二重櫓、土塀)
構造物天守、二重櫓、土塀、石垣、堀切など
問い合わせ先高梁市役所社会教育課 文化係
電話番号0866-21-1516

縄張図・鳥観図

現地案内板より

ポイント

主な遺構 :
石垣
枡形(大手門)
天守、二重櫓(国の重要文化財)
土塀(一部国の重要文化財)
石垣
備中松山城の石垣は臥牛山から切り出した花崗岩を利用しています。
大手門では巨大な岩盤を取り込み、その上に石垣を積み、白壁の土塀を設置することでかなりの高さを誇る防御施設となっています。
また二の丸や本丸など各曲輪にもふんだんに石を利用した石垣を配置しており、その難攻不落さを窺い知ることができます。
枡形(大手門)
城の入り口にあたる大手門は周囲を石垣で囲う枡形になっており、この中に侵入した攻め手は四方八方から飛んでくる矢玉の餌食となります。
天守、二重櫓(国の重要文化財)
天守は二層二階の層塔式で高さは約11m、現存天守の中では最も低いものとなります。外観は三重ですが、実際には二階建です。一階には囲炉裏(いろり)があり、装束の間(しょうぞくのま)という城主だけが入る一段高い部屋があります。
二重櫓は、天守の後方に建つ二重二階の櫓で一階の床面は7.9m×5m、棟までの高さは8.4mあります。入母屋造りの屋根は本瓦葺きで、大棟の両端に一対の鯱(しゃちほこ)を据え、破風には梅鉢懸魚が飾られています。
土塀(一部国の重要文化財)
三の平櫓東土塀は、大手門を入り左に曲がると正面に見えるもの(画像1)で、現存する土塀です。備中松山城には現存する土塀が2ヵ所あり、そのうちの1ヵ所(三の平櫓東土塀)が重要文化財に指定されています。
城郭において重要文化財に指定されている土塀はほとんどありません。

歴史的背景

備中松山城は承久の乱(1221年)で功績を立て、有漢郷(現高梁市有漢町)の新補地頭として任じられた秋庭三郎重信が臥牛山に築城したのが始まりと考えられています。彼は鎌倉幕府の有力御家人で13人の合議制にも参加した三浦氏の一族と伝わっていますが、詳細はわかっていません。

戦国期に入ると毛利元就の支援を受けた三村家親が尼子氏の家臣である吉田左京亮を打ち破り備中松山城を支配します。しかし家親は下剋上で勢力を伸ばして備中に進出してきた宇喜多直家によって暗殺され三村氏の勢力が一時後退、代って直家の支援を受けた尼子勝久が備中に進出します。家親の跡を継いだ元親は毛利氏の加勢を受けてなんとか備中松山城を回復しました。

元亀3年(1572)、将軍足利義昭の仲裁で、毛利氏と宇喜多氏の和睦が成立すると元親は畿内を制圧した織田信長と結び毛利氏に反旗を翻します。毛利宇喜多連合軍と三村勢は備中松山城をはじめとする諸城をめぐり備中で激戦を繰り広げ、備中兵乱と呼ばれる大戦となります。これに敗れた三村氏は滅亡し、備中松山城には毛利家臣の天野氏や桂氏が城代に任じられました。天正7年(1579)になると今度は宇喜多直家が織田信長と結び毛利氏と対決します。備中松山城は毛利方の前線拠点として強化され、現存する姿の前身がこの頃までに整備されたと考えられています。

毛利氏が関ヶ原の合戦の結果、防長二国へ減封となると備中松山城は徳川幕府の支配下に置かれ、備中国奉行として派遣された小堀正次、政一(遠州)父子によって改修が実施されるなど、幕府からも重要視されていました。
寛永19年(1642)になると水谷勝隆が城主兼藩主として5万石で入封すると高瀬舟路や玉島新田の開発に力を注ぎ藩政の基礎を築きます。勝隆の跡を継いだ勝宗の時に備中松山城の大改修が行われ、現在、国指定重要文化財として残る備中松山城の天守、二重櫓、三平櫓東土塀などが作られました。

しかし水谷氏は三代勝美が無嗣子となり、末期養子を取るなどしましたが、結局断絶、勝美の弟勝時を跡継ぎに立てようとするも幕府から認められずに3000石の旗本に減封されてしまいます。
この時、備中松山城の受け渡しには赤穂藩主であった浅野長矩が任じられ、長矩の名代として『忠臣蔵』で有名な家老大石内蔵助が備中松山城に入城し次の藩主が来るまでの約1年半にわたって城の管理をしていました。

その後備中松山藩には安藤氏、石川氏が相次いで入封した後転封していき、最終的には板倉勝澄が5万石で入封し幕末まで板倉氏が藩主を務めることになります。
幕末には徳川慶喜の元で老中首座となった板倉勝静が藩主となり、山田方谷を起用して藩政改革を推し進め、10万両あった藩の借金を7年で完済し、さらに10万両を蓄財するまでに藩の財政を再建しました。
しかし藩主が幕府の要職にあったため明治新政府から備中松山藩は追討令を出されてしまいます。山田方谷らは無血開城を選択し城は戦火を免れることができました。

アクセス

公共交通機関

・タクシー利用:備中高梁駅 → ふいご峠 → (徒歩20分700m) → 備中松山城天守着

  通常タクシー料金:往路 約1,500円/復路 2,000(電話番号:備北タクシー 0866-22-2086/ピオーネ交通 0866-22-2755)

乗合タクシー料金:おひとりさま片道600円

・徒歩:備中高梁駅から約1時間30分

自家用車

最寄りIC:賀陽IC 約20分/有漢IC 約25分

・自家用車は城まちステーション(5合目)までで、そこから登城整理バス利用(登城整理料:大人500円 小中学生200円(往復))

※令和4年4月1日(金)より適用

ふいご峠(8合目)まで登城整理バスで移動後、20分ほど登ると主要部に到着します。

時期によってはふいご峠まで自家用車で行ける場合もあります。

参考文献・サイト

書籍
備中松山城各種パンフレット
サイト
備中松山城-高梁市公式ホームページ
備中松山城-高梁市観光情報
備中松山城-天空の城

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