高梨氏館跡(たかなししやかたあと)
~中世城館の佇まいを今に伝える~
Parameters of
this castle
高梨氏館跡は、鎌倉時代から戦国時代にかけて活躍した、北信地方の有力武士団高梨氏により築造されたと推測される中世の方形館跡で、東西約130メートル、南北約100メートルの規模をもつ北信最大級の中世城館跡です。
館跡は、四方に堀及び土塁が良好に残されており、発掘調査では、長野県内では唯一の事例である中世の庭園跡や、土塁が三段階以上の構築過程を経ていることなどが確認されました。
平時はこの城館で日常生活や政務などを行い、非常時は東側の背後にある鴨ヶ岳城(比高300m)を詰めの城として徹底抗戦をする構えを想定していたと考えられています。
これらのことから、高梨氏館跡は、中部地方の武士団の文化的レベルや方形館の発展過程を示すものとして高く評価され、国の史跡にも指定されています。
基本情報
城名(別名) | 高梨氏館跡(中野小館) |
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築城主 | 高梨政盛 |
築城年 | 室町時代後期 |
カテゴリー | 室町時代 平城 |
遺構 | 空堀 土塁 冠木門(復元) 木橋(復元) |
住所(所在地) | 長野県中野市小舘4−40 |
指定文化財 | 国の指定史跡 |
構造物 | 冠木門(復元)、木橋(復元)、空堀、土塁 |
問い合わせ先 | 指定管理者事務所 |
電話番号 | 0269-22-5158 |
縄張図・鳥観図
姿形は典型的な中世の方形城館ということがわかります。
鳥観図の出典は余湖くんのホームページ様です。
ポイント
- 主な遺構 :
- 空堀
- 土塁
- 冠木門(復元)
- 木橋(復元)
- 空堀
- 主要部の全周を囲うように掘られています。
- 土塁
- 空堀を突破されても容易に主要部への侵入を許さない仕組みになっています。
- 冠木門(復元)
- 館の出入口を固めていた門が再現されています。
- 木橋(復元)
- 堀に架けられていたであろう木橋が再現されています。
非常時は橋を落として攻め手の侵入を阻んだのでしょうか
歴史的背景
北信濃の有力武士団、高梨氏
高梨氏は、第56代清和天皇の御孫尊王・源経基より6世の孫・盛光が祖となり高梨を名乗ったといわれています。高梨氏の勢力が拡大したのは鎌倉時代から南北朝時代にかけてで、室町時代中期には信濃守護上杉房定を打ち破り、上杉氏に加勢した土豪を滅ぼすことで北信濃の広大な領土を保有し、戦国時代中頃までには中野地方を完全に支配下においたと考えられています。
戦国時代後半になると甲斐の武田晴信が信濃への侵攻を開始し、小笠原氏や村上氏などの信濃の諸侯を次々に駆逐、さらに北進して高梨氏の勢力圏にも武田の軍勢が迫ります。高梨氏は血縁でもあった越後の長尾景虎に対して支援を要請し、中野地方を捨てて飯山城まで後退しつつも武田軍に抵抗します。上杉軍に属した高梨氏は世に名高い永録4(1561)年の川中島の戦いで上杉軍の先陣を務めるなど活躍しています。
武田氏が滅亡し、その後進軍してきた織田軍も本能寺の変によって撤退すると上杉景勝が川中島4郡に進出し、これに従った高梨氏は久方ぶりに本領の一部(中野地方)を回復し高梨館にも復帰することができました。しかし上杉景勝が豊臣秀吉の命によって会津へ転封となると高梨氏もこれに従い中野の地を後にすることになりました。
アクセス
公共交通機関
長野電鉄「信州中野駅」下車 徒歩約15分
自家用車
上信越自動車道「信州中野I.C」より車で約15分
駐車場:15台(大型車用駐車場あり)
参考文献・サイト