大谷吉継陣跡おおたによしつぐじんあと

~友誼に殉じた名将の野戦築城~

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「大谷吉継陣跡」は、山中(やまなか)の「大谷吉継の墓」から少し下った場所にあり、ひっそりと碑が建っています。大谷隊は、関ケ原の合戦が始まる十日程前に「若宮八幡宮」上の急斜面に陣を作り始めました。この陣は、空堀を左右に巡らせ、山中城と呼ばれるほどの要害の地でした。合戦後、徳川家康も大谷陣を一夜の宿として使用したという話もあります。戦術に長け、また官僚としても優秀であった吉継は、陣作りにも力を発揮しました。当初より小早川秀秋の裏切りを予想していたため、松尾山の真正面のこの地に陣を定めたというのも驚きです。
大谷吉継は、親友の石田三成に徳川家康との戦いを打ち明けられた時、無謀な戦いであることを説き続けました。しかし、いざ決戦の舞台に立つと、三成の“義”を貫こうとする決意は固く、病身でありながらも死に装束で合戦に参加します。関ケ原合戦では、多くの武将達が自らの利益のために参戦していたといわれています。そんな中、“義”という目に見えない価値のために死を選んだ吉継の生き様は、まさに男の美学といえるでしょう。
大谷吉継陣跡 | スポット情報 - 関ケ原観光ガイド~より引用

【目次】
基本情報
縄張図・鳥観図
ポイント
アクセス
参考文献・サイト

基本情報

城名(別名)大谷吉継陣跡(山中城)
築城主大谷吉継
築城年慶長5年(1600)
カテゴリー安土桃山時代 山城 
関連項目野戦築城 西軍 大谷吉継 関ヶ原の戦い 小早川秀秋 
遺構横堀 大谷吉隆の墓 松尾山眺望地 平塚為広の碑  
住所(所在地)岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原 山中32
構造物陣跡、土塁、空堀
問い合わせ先関ケ原観光協会 事務局
電話番号0584-43-1600

ポイント

主な遺構 :
横堀
大谷吉隆の墓
松尾山眺望地
平塚為広の碑
横堀
陣跡の周辺を歩くと塹壕のように掘られた横堀や土塁を見ることができます。
急造の野戦築城ではありますが、大谷軍は寝返った小早川軍の攻勢を押し返したという話もあり、この陣地も威力を発揮したと考えられます。
大谷吉隆の墓
大谷吉継陣跡からさらに登ったところに大谷吉隆の墓があります。
大谷吉継は関ヶ原合戦の直前に吉隆と改名しており、そのため大谷吉隆の墓と石碑に銘打たれています。
横には大谷吉継の介錯をしてその首を隠匿した湯浅五助の墓もあります。こちらは明治になって子孫が建てたものだそうです。
松尾山眺望地
1.5キロ先にある松尾山を視界に捉えることができる眺望地で、小早川秀秋の二心を疑っていた吉継はこの地から小早川軍への監視を続けていたと思われます。
平塚為広の碑
大谷吉継陣跡から数百メートル離れたところにある平塚為広を顕彰した石碑です。
垂井城主であった平塚為広は、盟友の大谷吉継と共に関ヶ原に布陣し、病を得ていた大谷吉継に代わって前線の指揮を託されていたようです。関ヶ原合戦が始まると藤堂高虎・京極高知らを相手に奮戦します。
小早川軍が寝返ると、吉継と共にこれを迎撃しますが、脇坂安治らも寝返ったため戦線を維持できず、吉継に辞世の句を送って討死したようです。

アクセス

大谷吉継陣跡の専用駐車場があります

車を数台駐車することができます。

大谷吉継陣跡専用駐車場まで
関ヶ原ICから車で約5分
岐阜関ケ原古戦場記念館からは徒歩で約30分

大谷吉継陣跡専用駐車場から徒歩10分ほどで陣跡です。

参考文献・サイト

サイト
大谷吉継陣跡 | スポット情報 - 関ケ原観光ガイド
大谷吉継陣跡|観光スポット

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