七尾城ななおじょう

~日本五大山城に数えられる国内屈指の巨大山城~

Shironav Master

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    七尾城跡は、石川県の石動山系に築かれた山城で、城域は南北約2.5km、東西約1.0km、面積は約252.6haにおよび、全国でも屈指の規模を有します。
    山上から山麓までの自然地形を巧みに利用し、七尾の地名の由来となった七つの尾根筋を中心に多数の曲輪を連ね、山麓には城下の町並みが形成されました。
    城主の能登畠山氏は守護として約170年間能登を治め、統治の拠点である七尾城もその間に次第に拡張、増強され現在のような巨大城郭になりました。
    現在は国の史跡として整備、発掘調査がなされ、巨大な堀切や低石垣を何段も重ねた見事な石垣などの遺構を見ることができます。
    日本100名城に選出され、日本五大山城にも数えられています。

    【目次】
    基本情報
    縄張図・鳥観図
    ポイント
    歴史的背景
    アクセス
    参考文献・サイト

    基本情報

    城名(別名)七尾城(松尾城、末尾城)
    築城主畠山満慶
    築城年正長元年(1428)頃
    カテゴリー室町時代 安土桃山時代 山城 
    遺構石垣 堀切 曲輪(本丸) 土塁  
    住所(所在地)石川県七尾市古府町
    指定文化財国の史跡
    構造物曲輪、石垣、土塁、堀切、虎口
    問い合わせ先七尾市役所教育委員会スポーツ・文化課
    電話番号0767-53-8437

    縄張図・鳥観図

    現地案内板より
    広大な山中にかなりの規模の曲輪がいくつもあったように見え、いかに巨大城郭であったかを窺い知ることができます。

    ポイント

    主な遺構 :
    石垣
    堀切
    曲輪(本丸)
    土塁
    石垣
    本丸以外にも重臣屋敷等にも石垣が配置されています。
    特に桜の馬場では5段に組まれた石垣を見ることができます。
    堀切
    曲輪と曲輪を断ち切るような巨大な堀切が随所で見ることができます。
    曲輪(本丸)
    本丸からは七尾湾を一望でき、上杉謙信も感嘆したと伝わる絶景を見ることができます。
    土塁

    歴史的背景

    能登畠山氏について

    足利氏一門の有力武士で、越中の守護を務めていた畠山基国が室町時代の初めの明徳2年(1391)に能登の守護に任命され、その後、河内、紀伊の守護も兼務しました。応永5年(1398)には室町幕府の要職である管領に起用され、斯波氏・細川氏と三管領の一つとしての地位を築いています。

    能登畠山氏は、基国の次男・満慶が、治めていた四か国(河内・越中・紀伊・能登)のうち、応永15年(1408)に能登国のみの守護となったことをはじまりとします。当時、守護は在京し、能登国では守護代である遊佐氏が府中の守護所(現在の市街地付近)で政務にあたっていました。

    応仁・文明の乱(1467-1477)後の文明10年(1478)に、守護・畠山義統が能登に下向、在国し分国経営の基礎を固めました。七代義総のとき、領国支配は安定し、能登畠山氏は最盛期を迎えます。公家や歌人などの多くの文化人が、都から七尾に訪れました。七尾城内の義総邸では、たびたび和歌や連歌の会が催されました。

    上杉謙信による能登侵攻

    七代義総が亡くなると、家臣の遊佐氏や温井氏などが権勢を増し、畠山氏の君主権を脅かすようになり、能登国内で内紛が頻発し、国内が不安定な情勢になります。やがて天正4年(1576)、越後を支配する上杉謙信が本願寺と同盟を結び織田信長討伐のため京都へ向けて進撃を開始、2万を号する大軍で越中に侵入した謙信は能登畠山氏にも信長討伐に加勢をするよう要請します。しかし畠山家中では織田派、上杉派に意見が割れてしまいどちらに味方するか結論を出すことができませんでした。これを見た謙信は能登の情勢不安を理由に上条政繁(かつて畠山氏から上杉氏へ人質に出されていた人物)を新たな畠山家の当主として擁立して自分のコントロール下に置こうとしました。しかし畠山家中では筆頭家老である長続連を中心に謙信の介入に反発が起こり、七尾城に籠城して上杉家との対決姿勢を鮮明にする者が続出しました。

    このような経緯から上杉軍が七尾城を囲み、第一次七尾城の戦いが勃発しました。軍神と讃えられるほどの戦上手である謙信をもってしても難攻不落の七尾城を落とすことは容易ではなかったようで、翌年に北条氏政が北関東へ出兵するとこれに対処するべく謙信は一時撤退します。そのため畠山氏は上杉氏によって奪われた城を一部奪回するなどして勢力を一時的に盛り返すことができました。

    しかしその数か月後に謙信が再び襲来(第二次七尾城の戦い)、畠山勢は七尾城に逃げ込み、包囲されてしまいます。折り悪く七尾城内では疫病が流行し当主の畠山義隆をはじめとする多くの死者を出し、城兵の士気は低下する一方でした。城内では上杉派の遊佐氏が降伏を声高に主張し、織田派の重臣を暗殺、上杉に寝返り軍勢を手引きします。これによって混乱に陥った七尾城はついに落城、能登畠山家は滅亡します。

    落城後の七尾城に入った上杉謙信は本丸からのあまりの眺めのよさに、「絵像に写し難き景勝」と絶賛し、「霜は軍営に満ちて秋気清し」から始まる、生涯唯一の漢詩を詠んだと言われています。

    アクセス

    公共交通機関

    • JR七尾線・七尾駅から、市内巡回バス「まりん号」東回りで約13分、「古屋敷町」下車、本丸まで徒歩約60分

    時期によっては登山道が封鎖されていることがあります(スズメバチの被害等)ので七尾城資料館で最新の情報を入手してください。

    自家用車

    • 能越自動車道・七尾城山ICから15分
    • のと里山海道・上棚矢駄ICから30分

    車の場合、七尾城本丸北駐車場を目的地に設定すると本丸の間近まで車で行くことができます(道が少し狭くなっている部分もありますのでご注意ください)。

     

    参考文献・サイト

    書籍
    七尾城各種パンフレット
    サイト
    史跡七尾城
    七尾城跡-ほっと石川旅ネット

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