毛利秀元陣跡(もうりひでもとじんあと)
~天下の大戦を前に割れた毛利家~
Parameters of
this castle
毛利元就の四男穂田元清の子で、主家毛利輝元の養子となり、文禄・慶長の役では、輝元に代わり朝鮮へ出兵。
その後、輝元に実子秀就が生まれると、周防・長門が与えられます。
関ヶ原合戦の際には、西軍に属し、輝元の名代として南宮山に陣を敷きますが、一族の吉川広家の内通により合戦に参加できませんでした。
合戦後、毛利家の領土は減封されたため、長府3万6千石の領主となりました。
吉川の裏切り行為により、幕末まで毛利本家と吉川家は確執を残しました。
~毛利秀元 陣跡 (南宮山 展望台)~より引用
毛利秀元がこの南宮山に布陣したのは9月7日で、大垣城方面を見渡すことができ、同方面から来襲する東軍をけん制するための布陣であったと思われます。
徳川家康が関ヶ原合戦で最初に布陣した桃配山とは山で地続きになっており、東軍の挟み撃ちを行うには絶好の位置取りでしたが、吉川広家の東軍内通により南宮山を降りることができず、長束正家の急使に戦闘参加を促されると、それに対して『兵に兵糧を食させている』と苦しい言い訳をし、世人はこれを『宰相殿の空弁当』と称したようです。
基本情報
城名(別名) | 毛利秀元陣跡(南宮山陣城) |
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築城主 | 毛利秀元 |
築城年 | 慶長5年(1600) |
カテゴリー | 安土桃山時代 山城 |
関連項目 | 南宮山 毛利輝元 吉川広家 安国寺恵瓊 毛利秀元 西軍 関ヶ原の戦い |
遺構 | 竪堀 土塁 虎口 吉川広家陣跡 安国寺恵瓊陣跡 |
住所(所在地) | 岐阜県不破郡垂井町上石津町牧田 |
構造物 | 曲輪、土塁、竪堀 |
問い合わせ先 | 垂井町観光協会 役場事務所 |
電話番号 | (0584)22-1151 |
ポイント
- 主な遺構 :
- 竪堀
- 土塁
- 虎口
- 吉川広家陣跡
- 安国寺恵瓊陣跡
- 竪堀
- 陣地跡の北東端にある竪堀です。
急造の野戦築城ですが大兵力を擁していた毛利軍の土木力によって当時はかなりの規模を誇ったと思われます。
- 土塁
- 竪堀から陣地主郭に向かうと見ることができる土塁です。
こちらも野戦築城とは思えないレベルのしっかりとした土塁になっています。
- 虎口
- 陣地主郭北東に位置する虎口で、登山道から展望地への入り口にもなっています。
すこしわかりにくいですが、クランクするようになっていました。
- 吉川広家陣跡
- 南宮山麓にある吉川広家の陣跡です。
毛利一族であった広家は西軍の敗北を予期し、主家を守るため東軍の黒田長政を通じて毛利勢の戦闘不参加を申し入れ、東軍勝利の際は毛利家の本領安堵をするという密約を結んでいました。決戦当日、広家は毛利軍の前衛を固めて兵を動かさず南宮山の西軍諸将を押し留めて、東軍の勝利に貢献しました。
ところが、戦後に毛利主家の所領安堵の密約は反故にされてしまい、毛利家は改易の危機に陥ります。広家は主家存続のために奔走し、自身に与えられていた周防・長門37万石を毛利家に与えることを嘆願し、毛利家は大減封になったものの存続を許されました。
- 安国寺恵瓊陣跡
- 安国寺恵瓊の出自は安芸国守護武田氏といわれています。武田氏滅亡後、安芸安国寺で出家しました。
毛利氏に仕えると外交僧として活躍し、信長や秀吉とも交渉を行っています。
秀吉から信任を得て伊予国内に6万石を与えられました。
関ヶ原の戦いでは石田三成らと共謀し、五大老の毛利輝元を西軍総大将に引き込むことに成功しました。しかし家中の結束を得ないままの参戦となったため吉川広家らの反発を受け、決戦当日は広家が東軍に内通するなどして参戦することができず、敗走、後に捕えられて石田三成・小西行長とともに六条河原で斬首されました。
南宮山ハイキングコースの登山口に陣跡があります。
アクセス
麓の南宮大社付近には駐車場がありますが、参拝者のための駐車場ですので、登山される方はハイキングコース利用者駐車場を利用しましょう。
南宮山 ハイキングコース利用者駐車場まで車で
名神高速道路養老SA-養老スマートIC出口から約10分
駐車場から南宮大社を経由して毛利秀元陣跡までは約1時間ほど登山となります。
参考文献・サイト