葛尾城かつらおじょう

~北信濃の名将、村上義清の居城~

Shironav Master

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this castle

葛尾城は信濃源氏村上氏によって葛尾山上(標高805m)に築かれた山城です。村上氏は戦国時代に北信濃に覇を唱えた村上義清を輩出し、甲斐から侵攻してきた武田晴信と壮絶な戦いを繰り広げましたが、武田氏の勢いに抗うことができず没落します。
しかし葛尾城の戦略的な価値は衰えず、支配者となった武田氏や上杉氏らによって普請は続けられ活用され続けました。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦まで葛尾城は使用されましたが、その後江戸幕府から発された一国一城令によって廃城となったようです。
主郭からの眺めが非常に良好で、オススメポイントの一つです。県の史跡にも指定されています。

【目次】
基本情報
縄張図・鳥観図
ポイント
歴史的背景
アクセス
参考文献・サイト

基本情報

城名(別名)葛尾城
築城主信濃源氏村上氏
築城年室町時代
カテゴリー山城 
関連項目村上義清 
遺構堀切 石積 土塁 曲輪群  
住所(所在地)長野県埴科郡坂城町坂城
指定文化財長野県指定史跡
構造物案内板、碑
問い合わせ先坂城町役場、教育文化課 文化財係
電話番号0268-82-1109

縄張図・鳥観図

曲輪、堀切を多用し支城(岩崎城や姫城)と連動することで多方面からの攻撃にも耐えうる構造となっています。
こちらの図面の出典元は余湖くんのホームページ様です。

ポイント

主な遺構 :
堀切
石積
土塁
曲輪群
堀切
特筆すべきは大堀切(鳥瞰図の堀切1)で、かなりの深さを誇り、写真のような足場がなければ到底登ることができません。
石積
鳥瞰図では石積櫓となっている部分です。山城の石積は一般的に曲輪を周回するように積まれていることが多く、通路のような場所に積まれていることは珍しいと言えます。どのような意図で積まれたのか考察してみるのも面白いかもしれません。
土塁
主郭(鳥瞰図だと1となっている平場)と副郭(鳥瞰図だと2となっている平場)の間に大規模な土塁を確認できました。
曲輪群
特に南側からのルートに段曲輪が数多く配置されており、最上部の主郭までの道を阻みます。
主郭からは坂城の街や上田方面を見渡すことができます。

歴史的背景

武田氏の侵攻に抗った村上義清
村上氏は、平安時代の末ごろから千曲川左岸の村上郷を本拠地にしていた清和源氏の一族です。南北朝時代に右岸の坂木(坂城)へ拠点を移し、後醍醐天皇の建武政権から信濃惣大将に任じられ北条時行の起こした中先代の乱に対処しました。室町時代を経て戦国期に勢力圏が最大となり、信濃の東北部地域一帯の勢力をまとめ上げていました。
この時代に当主となった村上義清は甲斐から信濃へ侵攻してきた武田氏を上田原の戦い、砥石城の戦いで2度も打ち破り、戦の名手として名を馳せます。

しかし真田幸隆の調略で砥石城を失うと、次第に勢力を失い追い詰められます。
天文22年(1553年)の武田軍の攻勢の際には味方の国衆(室賀氏、屋代氏など)が寝返ったため、葛尾城を脱出、上杉軍の援軍を得て体制を立て直し、一度は奪い返すも武田軍が大軍を持って再度襲来すると、ついに葛尾城を捨て、上杉氏を頼って越後へ逃れました。

越後に退いた義清は上杉謙信(長尾景虎)に旧領回復のための出兵を依頼し、これに応じた謙信が信濃へ進出することで川中島の戦いが引き起こされました。義清は上杉家の信濃衆と共に戦いに参陣し武功を上げ、激戦となった第4次川中島合戦の時にはすでに齢60を越えていましたが、坂城への帰郷を切望し従軍したようです。しかし旧領復帰はかなわず、川中島の戦い後も上杉家に身を寄せ永禄8年(1565)には糸魚川の根知城主に任じられています。そして元亀4年(1573)同地にて没したと言われています。宿敵であった武田信玄もその数か月後に没し、信濃を巡って戦った両雄の時代の終焉を告げました。

葛尾城はその後も武田氏や上杉氏などの勢力が争奪戦を繰り広げ、戦に使われる中で改修されたと思われます。今でも深い堀切が残り、山城の特性を物語る一方、用途がわかっていない遺構もあります。
主郭からは義清の勢力圏だった千曲市・長野市方面、坂城町・上田市方面が見渡せ、戦略的に重要な城だったことが想像できます。

アクセス

葛尾城登山者駐車場まで
車:上信越自動車道坂城IC降りて約10分
公共交通機関:しなの鉄道坂城駅から徒歩約15分
駐車場から葛尾城主郭までの所要時間:約90分

参考文献・サイト

書籍
中嶋豊、いざ!登る信濃の山城: 戦国の舞台イラスト案内図、信濃毎日新聞社2020
サイト
余湖くんのホームページ
葛尾城跡と村上義清 - 坂城町
葛尾城(坂城町)-らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

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